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<title>R&amp;R教育研究所 ブログ</title>
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<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2021/10/21687/">
<title>目標を高くする理由</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2021/10/21687/</link>
<description>
　みなさん、初めまして。
　今回から私曽根がこちらのブログの方を定期的に更新していこうと思います。
　よろしくお願いいたします。


　さて、何事においても終着点及び目標というものは大切です。多くの人は、何かをする際に目標を決めることで頑張ろうと思うことができると思います。もちろん受験勉強もこれに当てはまります。志望校を決め、その高校や大学等に合格するために頑張ると思います。今回は、その志望校や目標を高くする理由について、私が学生時代お世話になった日本史の講師の話をもとに述べたいと思います。
　皆さんもご存知の三英傑の内の一人に豊臣秀吉がいます。彼は、織田信長の後継として、天下統一を成し遂げました。また、日本の領土拡大のために朝鮮半島への進出を試みました。しかし、その途中に無念にも病で命を賭してしまいました。また、彼の上司である織田信長は、天下統一を試みてその直前で亡くなりました。もし、それぞれが目指していたビジョンが、失敗した地点で考えると、ぞれぞれが目標の一歩手前で挫折していることになります。
　話は現代に戻りますが、私たちの生活では、何事もうまくいった経験しかない人はごく少数で何かしら失敗した経験をしている人が多いと思います。しかし、人生で大切な時に失敗はしたくないと思う人は多いでしょう。その筆頭が高校・大学受験だと思います。では、どうすれば失敗しにくくなるのか。それは、「行きたい学校のランクを一段階あげる」ことです。どういうことか。先ほどの織田信長や豊臣秀吉のように教科書に載る偉人でさえ、自分の目標を成し遂げられませんでした。では、織田信長が天下統一は一つの通過点であり、実際の目標は朝鮮半島進出であったらどうか。また、豊臣秀吉が、朝鮮半島進出は通過点で中華進出もしくは東アジアで経済圏を作ろうと考えていたらどうか。もしかしたら、その時の史実は、今と変わっているかもしれません。つまり、自分の中の1番を目標と設定した場合、 2番目に落ち着くことが多いというのであれば、 2番目の目標に1番目の目標を持って来れば良いということです。大学受験で置き換えれば、国公立を目指すなら、東大あるいは京大。私立なら早慶上智をまずは目指して、勉強をするということです。実際にその大学に行ける人は少ないかもしれません。しかし、今自分が志望している大学よりも確実に上のレベルだと思います。その付近の学力が 2月、3月にあれば、受験が近づいた時に自分の希望した大学に行ける可能性が一段と高いと思います。
　これから志望校を決める1、2年生、あるいはこれまで以上に勉強を頑張りたい３年生は、一つの参考にしてみてはいかがでしょうか。

R＆R

</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2021-10-22T15:30:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin163488447814837700" class="cms-content-parts-sin163488447814845800">
<p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 13px; line-height: normal; font-family: &#34;Helvetica Neue&#34;;">　みなさん、初めまして。</p>
<p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 13px; line-height: normal; font-family: &#34;Helvetica Neue&#34;;">　今回から私曽根がこちらのブログの方を定期的に更新していこうと思います。</p>
<p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 13px; line-height: normal; font-family: &#34;Helvetica Neue&#34;;">　よろしくお願いいたします。</p>
<p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 13px; line-height: normal; font-family: &#34;Helvetica Neue&#34;;"></p>
<p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 13px; line-height: normal; font-family: &#34;Helvetica Neue&#34;;"></p>
<p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 13px; line-height: normal; font-family: &#34;Helvetica Neue&#34;;">　さて、何事においても終着点及び目標というものは大切です。多くの人は、何かをする際に目標を決めることで頑張ろうと思うことができると思います。もちろん受験勉強もこれに当てはまります。志望校を決め、その高校や大学等に合格するために頑張ると思います。今回は、その志望校や目標を高くする理由について、私が学生時代お世話になった日本史の講師の話をもとに述べたいと思います。</p>
<p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 13px; line-height: normal; font-family: &#34;Helvetica Neue&#34;;">　皆さんもご存知の三英傑の内の一人に豊臣秀吉がいます。彼は、織田信長の後継として、天下統一を成し遂げました。また、日本の領土拡大のために朝鮮半島への進出を試みました。しかし、その途中に無念にも病で命を賭してしまいました。また、彼の上司である織田信長は、天下統一を試みてその直前で亡くなりました。もし、それぞれが目指していたビジョンが、失敗した地点で考えると、ぞれぞれが目標の一歩手前で挫折していることになります。</p>
<p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 13px; line-height: normal; font-family: &#34;Helvetica Neue&#34;;">　話は現代に戻りますが、私たちの生活では、何事もうまくいった経験しかない人はごく少数で何かしら失敗した経験をしている人が多いと思います。しかし、人生で大切な時に失敗はしたくないと思う人は多いでしょう。その筆頭が高校・大学受験だと思います。では、どうすれば失敗しにくくなるのか。それは、「行きたい学校のランクを一段階あげる」ことです。どういうことか。先ほどの織田信長や豊臣秀吉のように教科書に載る偉人でさえ、自分の目標を成し遂げられませんでした。では、織田信長が天下統一は一つの通過点であり、実際の目標は朝鮮半島進出であったらどうか。また、豊臣秀吉が、朝鮮半島進出は通過点で中華進出もしくは東アジアで経済圏を作ろうと考えていたらどうか。もしかしたら、その時の史実は、今と変わっているかもしれません。つまり、自分の中の1番を目標と設定した場合、 2番目に落ち着くことが多いというのであれば、 2番目の目標に1番目の目標を持って来れば良いということです。大学受験で置き換えれば、国公立を目指すなら、東大あるいは京大。私立なら早慶上智をまずは目指して、勉強をするということです。実際にその大学に行ける人は少ないかもしれません。しかし、今自分が志望している大学よりも確実に上のレベルだと思います。その付近の学力が 2月、3月にあれば、受験が近づいた時に自分の希望した大学に行ける可能性が一段と高いと思います。</p>
<p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 13px; line-height: normal; font-family: &#34;Hiragino Sans&#34;;">　これから志望校を決める<span style="font-stretch: normal; line-height: normal; font-family: &#34;Helvetica Neue&#34;;">1</span>、<span style="font-stretch: normal; line-height: normal; font-family: &#34;Helvetica Neue&#34;;">2</span>年生、あるいはこれまで以上に勉強を頑張りたい３年生は、一つの参考にしてみてはいかがでしょうか。</p>
<p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 13px; line-height: normal; font-family: &#34;Hiragino Sans&#34;;"></p>
<p style="margin-top: 0px; margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 13px; line-height: normal; font-family: &#34;Hiragino Sans&#34;;">R＆R</p>
<div></div>
</div>
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<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2019/07/21686/">
<title>スマホやデジタルの功罪</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2019/07/21686/</link>
<description>
&#160;皆さま、こんにちは。
１か月ぶりのブログになります。今日のブログでは保護者の方との懇談でも話題にあがったのですが、スマホやデジタル媒体についての僕の感じたことや考えをお話させていただければと思います。
スマホが爆発的に普及したのは僕の記憶している限り、２０１０年の前後だと思いますが、そこからの生活は大きく変化したという印象を僕は受けています。どういう変化だったかを一言でいうと何事も手間がかからずにすぐにできるようになったというのが僕の実感です。手間がかからずにすぐに様々な事ができると言えばとても便利になったという印象になりますが、これを手間がかからずにすぐに様々な快楽が楽しめると言えば皆さんにはどのように聞こえますか。大げさに書きましたが、スマホは一歩間違えると依存症になってしまうというデータが実際に出ていますし、実際にスマホがないと生活できないというようになったらこれはもう完全に依存症です。大の大人でもこのような依存症になるケースが多発しているこの状況で若い世代の人には是非とも普段の生活にスマホのない状態を意図的に作ることを意識してほしいと思います。そしてそれくらい意識しておかないといけないくらいスマホは怖いものであるという認識を持ってほしいと僕は思っています。
また、デジタル媒体についての僕の考えですが、若いときからデジタル媒体にどっぷりとはまり込むのは危険だと考えています。その理由としてはデジタルというのは2進数の世界、つまり０か１ですべてを表そうという世界です。簡単に言ってしまうと全てを白と黒で表せるという２極思考になりがちです。しかし、世の中は白か黒かで表せることの方がむしろ少ないくらいです。
スマホもデジタル媒体もとても便利なものです。しかし、何事もプラスの面があればマイナスの面もあります。だからこそ一歩間違えたらとんでもないことを引き起こすことになるというのは頭に入れておいてほしいと願っています。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志

</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2019-07-13T15:45:00+09:00</dc:date>
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<div class="cms-content-parts-sin156301105357506200" id="cms-editor-minieditor-sin156301105357505100">
<p>&#160;皆さま、こんにちは。</p>
<p>１か月ぶりのブログになります。今日のブログでは保護者の方との懇談でも話題にあがったのですが、スマホやデジタル媒体についての僕の感じたことや考えをお話させていただければと思います。</p>
<p>スマホが爆発的に普及したのは僕の記憶している限り、２０１０年の前後だと思いますが、そこからの生活は大きく変化したという印象を僕は受けています。どういう変化だったかを一言でいうと<strong>何事も手間がかからずにすぐにできるようになった</strong>というのが僕の実感です。手間がかからずにすぐに様々な事ができると言えばとても便利になったという印象になりますが、これを<strong>手間がかからずにすぐに様々な快楽が楽しめると言えば皆さんにはどのように聞こえますか</strong>。大げさに書きましたが、スマホは一歩間違えると依存症になってしまうというデータが実際に出ていますし、実際にスマホがないと生活できないというようになったらこれはもう完全に依存症です。大の大人でもこのような依存症になるケースが多発しているこの状況で若い世代の人には是非とも普段の生活にスマホのない状態を意図的に作ることを意識してほしいと思います。そしてそれくらい意識しておかないといけないくらいスマホは怖いものであるという認識を持ってほしいと僕は思っています。</p>
<p>また、デジタル媒体についての僕の考えですが、若いときからデジタル媒体にどっぷりとはまり込むのは危険だと考えています。その理由としてはデジタルというのは2進数の世界、つまり０か１ですべてを表そうという世界です。簡単に言ってしまうと全てを白と黒で表せるという２極思考になりがちです。しかし、世の中は白か黒かで表せることの方がむしろ少ないくらいです。</p>
<p>スマホもデジタル媒体もとても便利なものです。しかし、何事もプラスの面があればマイナスの面もあります。だからこそ一歩間違えたらとんでもないことを引き起こすことになるというのは頭に入れておいてほしいと願っています。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
<p></p>
</div>
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</item>

<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2019/06/21685/">
<title>『配慮』という言葉を考える</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2019/06/21685/</link>
<description>
&#160;皆さん、こんにちは。
最近、中間テストの関係で生徒たちに自習室を使う際に周りへきちんと『配慮』する行動をするようにと言うことが多いのですが、今日は『配慮』とはどのようなものなのかをブログを通じて皆さんと共に考えていけたらと思います。
まず僕の考える配慮というのは自分のされて嫌なことは相手に対してもしないというものでした。しかし、最近ある本を読んでいると、この自分のされて嫌なことは相手に対してもしないという考え方はある意味で自分の考え方や価値観の押し付けになっているのではないかと考えるようになりました。よくよく考えてみると、されて嫌なことというのは人によって全然違いますし、ましてや習慣や文化が異なれば、持っている常識も異なります。では、『配慮』ある行動をするためには何を基準にして考えていけばいいのだろうかと考えていくとまずは共通のルールやモラルの周知、徹底がまずは大切になってくるのではないかと僕は思います。このルールやモラルというのをきちんと守り、その中で合理的行動を心掛けるのが配慮なのではないかと最近、僕は思います。
今回、『配慮』という言葉について考えてみましたが、皆さんの考える『配慮』の定義とはどのようなものでしょうか。今まで何気なく使っていた言葉も時代に応じて捉え方には変化が生じます。これからの時代で大切なのは変化に対して柔軟に対応していくことではないかと僕は思います。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2019-06-08T10:45:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>最近、中間テストの関係で生徒たちに自習室を使う際に周りへきちんと『配慮』する行動をするようにと言うことが多いのですが、今日は『配慮』とはどのようなものなのかをブログを通じて皆さんと共に考えていけたらと思います。</p>
<p>まず僕の考える配慮というのは自分のされて嫌なことは相手に対してもしないというものでした。しかし、最近ある本を読んでいると、この自分のされて嫌なことは相手に対してもしないという考え方はある意味で自分の考え方や価値観の押し付けになっているのではないかと考えるようになりました。よくよく考えてみると、されて嫌なことというのは人によって全然違いますし、ましてや習慣や文化が異なれば、持っている常識も異なります。では、『配慮』ある行動をするためには何を基準にして考えていけばいいのだろうかと考えていくとまずは共通のルールやモラルの周知、徹底がまずは大切になってくるのではないかと僕は思います。このルールやモラルというのをきちんと守り、その中で合理的行動を心掛けるのが配慮なのではないかと最近、僕は思います。</p>
<p>今回、『配慮』という言葉について考えてみましたが、皆さんの考える『配慮』の定義とはどのようなものでしょうか。今まで何気なく使っていた言葉も時代に応じて捉え方には変化が生じます。これからの時代で大切なのは変化に対して柔軟に対応していくことではないかと僕は思います。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
</div>
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<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2019/05/21684/">
<title>読書の意味とは</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2019/05/21684/</link>
<description>&#160;皆さん、こんにちは。
昨今、インターネットの急速な発達で読書、新聞を読むという習慣のある人が減少していると統計的にもでていますし、僕個人もそのように感じています。その減少の理由の1つとしてスマートフォンを代表とするデジタルツールを使うことで情報を得ることができるからと言われる方もいらっしゃいますが、果たして読書はただ情報を得るためだけの行為なのでしょうか。そこで今回のブログは僕の考える読書の意味をお話しさせていただきたいと思います。
まず読書は情報を得るためのもの、という声に対してですが、僕も読書には情報を得るという効果はあると思っています。しかし、この情報を得るというのは読書の多くの恩恵の要素の1つに過ぎないと僕は思っています。そのように考えるようになったのはあくまでも僕個人のことですが、iBookなどの電子書籍を活用してみようと試みたときにどうも読んだ内容が紙媒体の本のときに比べてまるで入ってこないと感じたことがきっかけです。その経験からその日のニュース、出来事などの１次情報を知るにはデジタルはいいが、物事を学ぶという行為にはデジタルは決して適していないのではないかと僕は思うようになりました。では、この違いはなんだろうかと考えていくとデジタルツールは情報の公開だけど、読書は筆者との対話であると僕は思うようになりました。そう考えるたとき、読書の最大の効用は情報を得ることではなく、筆者との対話を通じて自分の中の考え方の引き出しを増やし、価値観の枠を広げていくことではないかと僕は思います。このように考えると本１冊1000円前後で筆者の貴重な体験や考えを教えてもらえるなんて、とってもお得だと僕は思いますが、皆さんはどうでしょうか。
最後に冒頭でも書かせてもらった新聞についての僕の考えを書いておきます。結論から言うと僕は新聞は読む習慣はつけるべきだと考えています。その理由は得る情報の偏りをなくすためです。インターネットなんかで情報を得るとどうしても自分の興味・関心のあることに偏ってしまう傾向があります。そのせいか、専門知識はとても詳しいのに幅がとても狭いなと感じてしまう人が増えているように最近感じています。
これからの人には専門性も大切とは思いますが、それよりも様々な価値観を受け止めれるだけの多様性を身に着けてほしいと僕は思っています。そのために読書を是非とも習慣化してほしいというのが僕の願いです。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2019-05-18T09:40:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin155814453715227400" class="cms-content-parts-sin155814453715228500"><p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>昨今、インターネットの急速な発達で読書、新聞を読むという習慣のある人が減少していると統計的にもでていますし、僕個人もそのように感じています。その減少の理由の1つとしてスマートフォンを代表とするデジタルツールを使うことで情報を得ることができるからと言われる方もいらっしゃいますが、果たして読書はただ情報を得るためだけの行為なのでしょうか。そこで今回のブログは僕の考える読書の意味をお話しさせていただきたいと思います。</p>
<p>まず読書は情報を得るためのもの、という声に対してですが、僕も読書には情報を得るという効果はあると思っています。しかし、この情報を得るというのは読書の多くの恩恵の要素の1つに過ぎないと僕は思っています。そのように考えるようになったのはあくまでも僕個人のことですが、iBookなどの電子書籍を活用してみようと試みたときにどうも読んだ内容が紙媒体の本のときに比べてまるで入ってこないと感じたことがきっかけです。その経験からその日のニュース、出来事などの１次情報を知るにはデジタルはいいが、物事を学ぶという行為にはデジタルは決して適していないのではないかと僕は思うようになりました。では、この違いはなんだろうかと考えていくと<strong>デジタルツールは情報の公開だけど、読書は筆者との対話である</strong>と僕は思うようになりました。そう考えるたとき、読書の最大の効用は情報を得ることではなく、<strong>筆者との対話を通じて自分の中の考え方の引き出しを増やし、価値観の枠を広げていくこと</strong>ではないかと僕は思います。このように考えると本１冊1000円前後で筆者の貴重な体験や考えを教えてもらえるなんて、とってもお得だと僕は思いますが、皆さんはどうでしょうか。</p>
<p>最後に冒頭でも書かせてもらった新聞についての僕の考えを書いておきます。結論から言うと僕は新聞は読む習慣はつけるべきだと考えています。その理由は得る情報の偏りをなくすためです。インターネットなんかで情報を得るとどうしても自分の興味・関心のあることに偏ってしまう傾向があります。そのせいか、専門知識はとても詳しいのに幅がとても狭いなと感じてしまう人が増えているように最近感じています。</p>
<p>これからの人には専門性も大切とは思いますが、それよりも様々な価値観を受け止めれるだけの多様性を身に着けてほしいと僕は思っています。そのために読書を是非とも習慣化してほしいというのが僕の願いです。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p></div>
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</item>

<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2019/04/21683/">
<title>平成から令和へ</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2019/04/21683/</link>
<description>&#160;皆さん、こんにちは。
久々にブログを更新します。
今日は元号が平成から令和になるということで平成とはどんな時代だったのかというのを僕の体験を通じて振り返っていってみたいと思います。
僕は現在３０代なので平成という時代とともに人生を歩んできましたが、その中で平成という時代を振り返ってみると一言で言うなれば『変化のとても大きな時代』というのが僕の印象です。説明するのが難しいのですが、学生時代の９０年代後半、社会人になったばかりの００年代、そして現在の１０年代で考え方や価値観、生活がガラッと変わっていったという感じです。例えば生活についての変化で言いますと、９０年代にはほとんど普及してなかった携帯電話が００年代ではみんなが持っているのが当たり前になり、図書館で調べないといけないことが１０年代からはスマホで調べれば事足りるようになったというのが挙げられます。こうやって生活の一部分を振り返るだけでもすごい変わったなという実感が改めて思います。
あと数日すると平成が終わり、令和という時代が始まります。令和という時代がどうなるかは僕なんかでは予想もできません。ただ、東日本大震災があったあたりからコミュニティや共同体の考え方が見直されてきたと僕は感じています。だからこそ生徒たちには周りの人達への配慮と感謝を大切にできるようにはなってほしいと思っています。そして令和は和というものを大切にしていく時代になっていってほしいというのが僕の願いです。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2019-04-27T11:10:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin155633384840174300" class="cms-content-parts-sin155633384840175400"><p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>久々にブログを更新します。</p>
<p>今日は元号が平成から令和になるということで平成とはどんな時代だったのかというのを僕の体験を通じて振り返っていってみたいと思います。</p>
<p>僕は現在３０代なので平成という時代とともに人生を歩んできましたが、その中で平成という時代を振り返ってみると一言で言うなれば『変化のとても大きな時代』というのが僕の印象です。説明するのが難しいのですが、学生時代の９０年代後半、社会人になったばかりの００年代、そして現在の１０年代で考え方や価値観、生活がガラッと変わっていったという感じです。例えば生活についての変化で言いますと、９０年代にはほとんど普及してなかった携帯電話が００年代ではみんなが持っているのが当たり前になり、図書館で調べないといけないことが１０年代からはスマホで調べれば事足りるようになったというのが挙げられます。こうやって生活の一部分を振り返るだけでもすごい変わったなという実感が改めて思います。</p>
<p>あと数日すると平成が終わり、令和という時代が始まります。令和という時代がどうなるかは僕なんかでは予想もできません。ただ、東日本大震災があったあたりからコミュニティや共同体の考え方が見直されてきたと僕は感じています。だからこそ生徒たちには周りの人達への配慮と感謝を大切にできるようにはなってほしいと思っています。そして令和は和というものを大切にしていく時代になっていってほしいというのが僕の願いです。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
<p></p></div>
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<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2019/03/21682/">
<title>悲観と否定</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2019/03/21682/</link>
<description>
&#160;皆さん、こんにちは。
入試関係のことでバタバタとしていたため１か月ぶりにブログを更新させていただきます。
今日は前回のブログで楽観と悲観の話をさせていただきました。今回は悲観と否定という同じようなニュアンスの言葉なのですが、その思考の中身は別物であると僕は考えています。その根拠をこれから綴っていきたいと思います。
まず悲観についてですが、これは『物事は思い通りにはいかない』と最初から疑ってかかる思考であると僕は考えています。別の言葉で言い換えると『あらゆる可能性を可能なかぎり考える』ことであるとも言えると僕は考えています。だからこそ、前回のブログでも僕は悲観的になることは決して悪いことではないと書かせていただきました。これに対して否定は『～ではない』や『～はダメ』という禁止の意味合いになると僕は考えています。このことから否定的になってしまうと禁止の連続なので、前向きに何かに取り組もうとする意欲が失われてしまいます。このことから僕は否定的な物言いや考え方はやるべきではないと考えています。特に自分自身へ否定的になってしまうと一気に自信喪失につながってしまいます。
今回このようなテーマでブログを書かせてもらったのは塾の生徒もそうですが、若い世代の人で悲観と否定を同じように捉えているような感じを受けたからです。悲観はあらゆる可能性を考えてその対策も考えるという言わば前向きな思考に対して、否定はもうダメだとあきらめてしまい行動しなくなる言わば後ろ向きの思考です。ですので、若い世代の皆さん、否定的思考はやめて、物事を悲観的に捉えてあらゆることに対応できるように日々できる限りの準備をすることに集中していってもらいたいのが僕の願いです。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2019-03-29T14:30:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>入試関係のことでバタバタとしていたため１か月ぶりにブログを更新させていただきます。</p>
<p>今日は前回のブログで楽観と悲観の話をさせていただきました。今回は悲観と否定という同じようなニュアンスの言葉なのですが、その思考の中身は別物であると僕は考えています。その根拠をこれから綴っていきたいと思います。</p>
<p>まず悲観についてですが、これは『物事は思い通りにはいかない』と最初から疑ってかかる思考であると僕は考えています。別の言葉で言い換えると『あらゆる可能性を可能なかぎり考える』ことであるとも言えると僕は考えています。だからこそ、前回のブログでも僕は悲観的になることは決して悪いことではないと書かせていただきました。これに対して否定は『～ではない』や『～はダメ』という禁止の意味合いになると僕は考えています。このことから否定的になってしまうと禁止の連続なので、前向きに何かに取り組もうとする意欲が失われてしまいます。このことから僕は否定的な物言いや考え方はやるべきではないと考えています。特に自分自身へ否定的になってしまうと一気に自信喪失につながってしまいます。</p>
<p>今回このようなテーマでブログを書かせてもらったのは塾の生徒もそうですが、若い世代の人で悲観と否定を同じように捉えているような感じを受けたからです。悲観はあらゆる可能性を考えてその対策も考えるという言わば前向きな思考に対して、否定はもうダメだとあきらめてしまい行動しなくなる言わば後ろ向きの思考です。ですので、若い世代の皆さん、否定的思考はやめて、物事を悲観的に捉えてあらゆることに対応できるように日々できる限りの準備をすることに集中していってもらいたいのが僕の願いです。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
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<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2019/02/21681/">
<title>楽観と悲観</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2019/02/21681/</link>
<description>
&#160;皆さん、おはようございます。
久しぶりのブログになってしまい、申し訳ございません。
今日は楽観と悲観についての僕の考えをお話させていただこうと思います。まず楽観と悲観についての一般的な傾向として『楽観』は前向きな思考、『悲観』は後ろ向きな思考という捉え方をされる印象があります。そのため楽観＝ポジティブ、悲観＝ネガティブという風に捉える方もいると思います。よって悲観的にならずに楽観的にいこうという考えが流行したのですが、悲観的な思考をやめようというのは違うのではないのかというのが僕の考えです。僕は悲観とは『物事は予測や予定通りにはいかない』と考えることであると思っています。言い換えれば悲観的な思考というのは想定できるあらゆる可能性に対しての対策を講じる思考であり、楽観というのは悲観的な思考を重ねに重ねて、もう悲観する事が考えられないとところまでいって初めて出てくる思考であると思っています。ですので、ただ楽観的にいこうというのは何も対策をせずに本番を迎えようとする危険な行為のように僕には感じられます。僕がもともと心配性なところがあるからこのように思うのかもしれませんが、これまでの自分の行いを振り返ってみても、なんとかなるだろうと思っていたことはだいたいのことは上手くいかなくて、大変なことになると思って対策を講じたものは思ったほど大変なことにならなかったというケースがほとんどです。
この悲観という準備を重ねに重ねるうえで初めて楽観という安心につながるというのはあくまでも僕の考えです。ただ、特にこれから受験や学年末試験を迎える生徒の皆さんに伝えたいこととしては悲観的に考えてしまうのは決して悪いことではないのだということです。不安を感じたのであれば可能な限りその不安に対しての対策を講じることに集中していってほしいというのが僕の願いです。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2019-02-23T09:45:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;皆さん、おはようございます。</p>
<p>久しぶりのブログになってしまい、申し訳ございません。</p>
<p>今日は楽観と悲観についての僕の考えをお話させていただこうと思います。まず楽観と悲観についての一般的な傾向として『楽観』は前向きな思考、『悲観』は後ろ向きな思考という捉え方をされる印象があります。そのため楽観＝ポジティブ、悲観＝ネガティブという風に捉える方もいると思います。よって悲観的にならずに楽観的にいこうという考えが流行したのですが、悲観的な思考をやめようというのは違うのではないのかというのが僕の考えです。僕は悲観とは『物事は予測や予定通りにはいかない』と考えることであると思っています。言い換えれば悲観的な思考というのは想定できるあらゆる可能性に対しての対策を講じる思考であり、楽観というのは悲観的な思考を重ねに重ねて、もう悲観する事が考えられないとところまでいって初めて出てくる思考であると思っています。ですので、ただ楽観的にいこうというのは何も対策をせずに本番を迎えようとする危険な行為のように僕には感じられます。僕がもともと心配性なところがあるからこのように思うのかもしれませんが、これまでの自分の行いを振り返ってみても、なんとかなるだろうと思っていたことはだいたいのことは上手くいかなくて、大変なことになると思って対策を講じたものは思ったほど大変なことにならなかったというケースがほとんどです。</p>
<p>この悲観という準備を重ねに重ねるうえで初めて楽観という安心につながるというのはあくまでも僕の考えです。ただ、特にこれから受験や学年末試験を迎える生徒の皆さんに伝えたいこととしては悲観的に考えてしまうのは決して悪いことではないのだということです。不安を感じたのであれば可能な限りその不安に対しての対策を講じることに集中していってほしいというのが僕の願いです。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
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<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2019/01/21680/">
<title>面接とは</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2019/01/21680/</link>
<description>&#160;皆さん、こんにちは。
受験のシーズンも本格的に始まってきて学校によっては面接を課すところもあります。今回は面接を受ける生徒たちの参考になればと思い面接というものについての僕の考えをお話させていただければと思います。
タイトルにもしていますが、面接とはどうしてするのでしょうか。面接することでどういったものが見てみたいと面接官の方は思っていらっしゃるのかという事を考えてみましょう。僕が面接官ならその人の人間性を見たいと思います。これは僕だけではなくほとんどの方もそうではないかと思います。ですので、あらかじめ聞かれたことに対する答え方をマニュアルみたいにしすぎるのはかえって自分の気持ちが相手に伝わりづらくなってしまうと思います。これではこの人は本音を話してくれないという印象を面接官の人に与えることになります。ですので、ありきたりですが面接においては自分の思いを自分の言葉で伝えることを何よりも大切にしてほしいと僕は思います。上手くしゃべろうと考えるよりも自分の正直な思いを伝えることを是非とも意識していただきたいと思います。
最後に面接とはいったいという問いについての僕の考えですが、ずばり面接とは双方向の会話であると僕は思っています。会話と思っていますので面接のポイントは①きちんと話を聞いて、②正直にありのままを、③自分の言葉で話す、ことに尽きると思います。このことがこれから面接にむかう人たちに少しでも役に立てば幸いです。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2019-01-18T14:50:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin154779451565913200" class="cms-content-parts-sin154779451565914400"><p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>受験のシーズンも本格的に始まってきて学校によっては面接を課すところもあります。今回は面接を受ける生徒たちの参考になればと思い面接というものについての僕の考えをお話させていただければと思います。</p>
<p>タイトルにもしていますが、面接とはどうしてするのでしょうか。面接することでどういったものが見てみたいと面接官の方は思っていらっしゃるのかという事を考えてみましょう。僕が面接官ならその人の<strong>人間性を見たい</strong>と思います。これは僕だけではなくほとんどの方もそうではないかと思います。ですので、あらかじめ聞かれたことに対する答え方をマニュアルみたいにしすぎるのはかえって自分の気持ちが相手に伝わりづらくなってしまうと思います。これではこの人は本音を話してくれないという印象を面接官の人に与えることになります。ですので、ありきたりですが面接においては<strong>自分の思いを自分の言葉で伝える</strong>ことを何よりも大切にしてほしいと僕は思います。上手くしゃべろうと考えるよりも自分の正直な思いを伝えることを是非とも意識していただきたいと思います。</p>
<p>最後に面接とはいったいという問いについての僕の考えですが、ずばり<strong>面接とは双方向の会話である</strong>と僕は思っています。会話と思っていますので面接のポイントは<strong>①きちんと話を聞いて、②正直にありのままを、③自分の言葉で話す</strong>、ことに尽きると思います。このことがこれから面接にむかう人たちに少しでも役に立てば幸いです。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
<p></p></div>
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</item>

<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2019/01/21679/">
<title>やりたいこと、できること、そして、必要とされること</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2019/01/21679/</link>
<description>
&#160;皆さん、明けましておめでとうございます。
おかげさまで無事に新年のスタートを切ることができました。今年もよろしくお願いします。
今日のブログのテーマにさせていただいた『やりたいこと、できること』は年始のテレビ番組での林修先生のお話から、『必要とされること』は先日、広島東洋カープに人的補償で移籍することになった長野久義選手のコメントから引用させていただきました。このお二人が話されていた内容がこれから社会に出ていく人、仕事について悩んでいる人にとても参考になると僕は感じましたので、お二人がどういう話をしたかを書かせていただきたいと思います。
年始の林修先生の出演された番組で林先生が高学歴であるが現在は企業に勤めていない若者たちに授業をするというコーナーがありました。このとき林先生は若者たちに『やりたいことは偶然、できることは必然』という言葉を送っていました。そして、やりたいこと、やりたくないことで決めるのもいいけど、できる、できないという見方も考えてほしいというメッセージも若者たちに送っていました。ここからはこの番組を見させていただいた僕の感想になりますが、やりたいことかつできることをすれば確かに最高です。きっと生き生きと毎日を過ごせると思います。しかし、あんまりやりたくないけど、周りからみたらできると思われているからやるというのも大切なのではないかとも思いました。これをやることで周りは感謝をしてくれます。感謝を得るというのも一つの充実ではないのかと僕は思います。
もう一人の長野選手のコメントですが、移籍が決まって第一声に『必要とされることは選手冥利に尽きます。』とコメントしていました。長野選手はドラフトで２度入団拒否をしてまで読売ジャイアンツに入団した選手です。これは僕の想像になりますが、きっと不満はあったと思います。にもかかわらず、そのことを少しも態度に出さずに必要としてくれたところで最大限やるというコメントをしたのはすごいの一言に尽きます。自分が好きな場所から突然異動しなくてはならなくなったことを想像してみてください。想像してみていただけると今回の長野選手の言動が本当にすごいことだと思っていただけるはずです。
最後に我々教育に携わるものは生徒たちと進路についての話をさせていただくとき『やりたいこと』についての話が中心になります。その結果、生徒たちも『やりたいこと』を考えます。もちろん自分が何をやりたいのかを考えるのは重要です。ただ、社会にでると『できる、できない』という軸で考えることもあるということを知っておいてほしいと僕は思っています。『やりたいこと』をやり続けることは最高だと思います。ただ、『必要としてくれるところで自分のできることを精一杯やる』ことも素敵なことではないかと僕は思います。皆さんはどう思いますか？
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志


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<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2019-01-11T15:15:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;皆さん、明けましておめでとうございます。</p>
<p>おかげさまで無事に新年のスタートを切ることができました。今年もよろしくお願いします。</p>
<p>今日のブログのテーマにさせていただいた『やりたいこと、できること』は年始のテレビ番組での林修先生のお話から、『必要とされること』は先日、広島東洋カープに人的補償で移籍することになった長野久義選手のコメントから引用させていただきました。このお二人が話されていた内容がこれから社会に出ていく人、仕事について悩んでいる人にとても参考になると僕は感じましたので、お二人がどういう話をしたかを書かせていただきたいと思います。</p>
<p>年始の林修先生の出演された番組で林先生が高学歴であるが現在は企業に勤めていない若者たちに授業をするというコーナーがありました。このとき林先生は若者たちに『やりたいことは偶然、できることは必然』という言葉を送っていました。そして、やりたいこと、やりたくないことで決めるのもいいけど、できる、できないという見方も考えてほしいというメッセージも若者たちに送っていました。ここからはこの番組を見させていただいた僕の感想になりますが、やりたいことかつできることをすれば確かに最高です。きっと生き生きと毎日を過ごせると思います。しかし、あんまりやりたくないけど、周りからみたらできると思われているからやるというのも大切なのではないかとも思いました。これをやることで周りは感謝をしてくれます。感謝を得るというのも一つの充実ではないのかと僕は思います。</p>
<p>もう一人の長野選手のコメントですが、移籍が決まって第一声に『必要とされることは選手冥利に尽きます。』とコメントしていました。長野選手はドラフトで２度入団拒否をしてまで読売ジャイアンツに入団した選手です。これは僕の想像になりますが、きっと不満はあったと思います。にもかかわらず、そのことを少しも態度に出さずに必要としてくれたところで最大限やるというコメントをしたのはすごいの一言に尽きます。自分が好きな場所から突然異動しなくてはならなくなったことを想像してみてください。想像してみていただけると今回の長野選手の言動が本当にすごいことだと思っていただけるはずです。</p>
<p>最後に我々教育に携わるものは生徒たちと進路についての話をさせていただくとき『やりたいこと』についての話が中心になります。その結果、生徒たちも『やりたいこと』を考えます。もちろん自分が何をやりたいのかを考えるのは重要です。ただ、社会にでると『できる、できない』という軸で考えることもあるということを知っておいてほしいと僕は思っています。『やりたいこと』をやり続けることは最高だと思います。ただ、『必要としてくれるところで自分のできることを精一杯やる』ことも素敵なことではないかと僕は思います。皆さんはどう思いますか？</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
<p></p>
<p></p>
</div>
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</item>

<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2018/12/21678/">
<title>小さな変化の積み重ねが大きな成長につながる</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2018/12/21678/</link>
<description>
&#160;皆さん、こんにちは。
今年もあとわずかになりました。４月の当塾のオープンから皆様のおかげで2018年もやっていくことができました。誠にありがとうございました。タイトルで書かせていただきましたが、オープンからここまでの生徒達の様子を振り返っていくことで今年の最後のブログにしたいと思います。
この１年を振り返ると、子どもの成長は僕の想像なんかでは測れないなという思いです。日々の変化としては『目を見て話を聞けるようになった』、『勉強した後、机をきれいにするようになった』、『字を丁寧に書くようになった』、『本や新聞を読むようになった』というような本当に小さなことですが、時間の経過とともにそれらのことが積み重なってくると本当にビックリするくらいの成長となって表れました。小さな変化とともに得た自信が集まると人は劇的に成長するのだと生徒達から僕も学ばせてもらったという思いです。これから先、生徒達がどんな成長をしていくのか、とても楽しみなのですが、きっと僕の想像なんかでは測り切れないんだろうなという思いも同時にしています。そして計り知れないからこそ生徒達の可能性を見ていきたいという気持ちです。来年も可能性に挑戦していく生徒たちの力になれるように僕も精進していきます。
それでは皆さん、よいお年をお迎えください。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2018-12-28T14:50:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>今年もあとわずかになりました。４月の当塾のオープンから皆様のおかげで2018年もやっていくことができました。誠にありがとうございました。タイトルで書かせていただきましたが、オープンからここまでの生徒達の様子を振り返っていくことで今年の最後のブログにしたいと思います。</p>
<p>この１年を振り返ると、子どもの成長は僕の想像なんかでは測れないなという思いです。日々の変化としては『目を見て話を聞けるようになった』、『勉強した後、机をきれいにするようになった』、『字を丁寧に書くようになった』、『本や新聞を読むようになった』というような本当に小さなことですが、時間の経過とともにそれらのことが積み重なってくると本当にビックリするくらいの成長となって表れました。小さな変化とともに得た自信が集まると人は劇的に成長するのだと生徒達から僕も学ばせてもらったという思いです。これから先、生徒達がどんな成長をしていくのか、とても楽しみなのですが、きっと僕の想像なんかでは測り切れないんだろうなという思いも同時にしています。そして計り知れないからこそ生徒達の可能性を見ていきたいという気持ちです。来年も可能性に挑戦していく生徒たちの力になれるように僕も精進していきます。</p>
<p>それでは皆さん、よいお年をお迎えください。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
</div>
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</item>

<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2018/12/21676/">
<title>選挙権を持つことの意味</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2018/12/21676/</link>
<description>
&#160;皆さん、こんにちは。
今日はタイトルにもあるように選挙権についての話をさせていただこうと思います。そして、選挙権を持つという事は政治、経済に関心を持って、1つ1つの政策や政策方針に対して自分の意見を持っていかないといけないことを意味すると僕は思っています。その自分の意見は選挙への投票という形で世間に反映させることは国民としての責任です。昨今、特に２０、３０代の投票率が低下しています。その理由としては『政治がよくわからない』『行っても何も変わらない』といったところです。しかし、選挙に行かないということは政治という国や自治体の運営に参加しないということです。国や自治体の運営に参加しないのに公共施設のサービスを受けたりするのはとてもズルい行為であると僕は思っています。ですので、行っても変わらないと言って選挙に行かない人は言い方は過激になりますが、国民みんなで創ってきた公共サービスや保証を受ける資格があるのでしょうか。1人1人が責任を果たした上での公共サービスであり、社会保障であるのだと僕は考えています。戦後、日本は民主主義国家になり、その主権つまり主役は国民1人1人になりました。このことが意味するのは日本という国をどういう国にしていくかを国民みんなで考えていこうということです。つまり選挙権を持つということは同時に社会、政治、経済といった国の運営について考えていく責任を持つことでもあると僕は思っています。
ここまで選挙権についての僕の考えを述べさせていただきましたが、そこには1人1人の国民（特に若い世代）が社会、政治、経済について関心を持って声をあげていかないとこの国は危ない、極端に言ってしまえば沈んでしまうという思いがあるためです。どれだけ小さくとも声を上げなければ現状は変わりませんし、権力者の独裁、暴走を許すことにもつながってしまいます。その声をあげる一番身近な機会が選挙への投票です。選挙で投票できるように普段から社会、政治、経済に関心を持ち、そしてこの国がどんな国になっていってほしいか次世代の皆さんには考えていってほしいと僕は願っています。
最後に現在の選挙権は１８歳からです。つまり１８歳からは今日ブログで書かせてもらった責任が生じるということです。中学生、高校生の皆さん、君たちにもその責任はすぐに生じます。すぐに社会、政治、経済に関心を持って考えろと言っても難しいかもしれませんが、新聞を読むなどしてちょっとずつ関心を持つところから始めていただければと思います。次回は中学生、高校生の政治、経済への関心のきっかけになればと思い、昨今の政策についての話をさせていただければと思います。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2018-12-13T14:20:00+09:00</dc:date>
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<div class="cms-content-parts-sin154468097049257800" id="cms-editor-minieditor-sin154468097049256600">
<p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>今日はタイトルにもあるように選挙権についての話をさせていただこうと思います。そして、選挙権を持つという事は政治、経済に関心を持って、1つ1つの政策や政策方針に対して自分の意見を持っていかないといけないことを意味すると僕は思っています。その自分の意見は選挙への投票という形で世間に反映させることは国民としての責任です。昨今、特に２０、３０代の投票率が低下しています。その理由としては『政治がよくわからない』『行っても何も変わらない』といったところです。しかし、選挙に行かないということは政治という国や自治体の運営に参加しないということです。国や自治体の運営に参加しないのに公共施設のサービスを受けたりするのはとてもズルい行為であると僕は思っています。ですので、行っても変わらないと言って選挙に行かない人は言い方は過激になりますが、国民みんなで創ってきた公共サービスや保証を受ける資格があるのでしょうか。1人1人が責任を果たした上での公共サービスであり、社会保障であるのだと僕は考えています。戦後、日本は民主主義国家になり、その主権つまり主役は国民1人1人になりました。このことが意味するのは日本という国をどういう国にしていくかを国民みんなで考えていこうということです。つまり選挙権を持つということは同時に社会、政治、経済といった国の運営について考えていく責任を持つことでもあると僕は思っています。</p>
<p>ここまで選挙権についての僕の考えを述べさせていただきましたが、そこには1人1人の国民（特に若い世代）が社会、政治、経済について関心を持って声をあげていかないとこの国は危ない、極端に言ってしまえば沈んでしまうという思いがあるためです。どれだけ小さくとも声を上げなければ現状は変わりませんし、権力者の独裁、暴走を許すことにもつながってしまいます。その声をあげる一番身近な機会が選挙への投票です。選挙で投票できるように普段から社会、政治、経済に関心を持ち、そしてこの国がどんな国になっていってほしいか次世代の皆さんには考えていってほしいと僕は願っています。</p>
<p>最後に現在の選挙権は１８歳からです。つまり１８歳からは今日ブログで書かせてもらった責任が生じるということです。中学生、高校生の皆さん、君たちにもその責任はすぐに生じます。すぐに社会、政治、経済に関心を持って考えろと言っても難しいかもしれませんが、新聞を読むなどしてちょっとずつ関心を持つところから始めていただければと思います。次回は中学生、高校生の政治、経済への関心のきっかけになればと思い、昨今の政策についての話をさせていただければと思います。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
</div>
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</item>

<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2018/12/21675/">
<title>直感と論理</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2018/12/21675/</link>
<description>
&#160;皆さん、こんにちは。
今日のブログでは直感と論理についての僕の考えをお話させていただければと思います。
直感と論理というと相反する概念のように感じられるかもしれませんが、僕はむしろ逆でこれらの２つの概念は互いを補完し、高めあうものであると考えています。このように考えるに至った理由を言っていく前に直感と論理はそれぞれ辞書にはどのような意味で書かれているかと言いますと、
直感は推理や考察によらず、感覚によって物事の状況を瞬時に捉えること、論理は議論や論理を進めていく筋道、物事の間の法則的な繋がりと書かれています。このように辞書に書かれている意味だけでとらえると相反するようにみえますが、このいずれかに特化している人というのを考えていくと僕は偏った人をイメージしてしまいます。例えば、直感だけに頼っている人は行動は早いけど、根拠を整理していないので周りの人そして自分自身をかき乱します。逆に論理だけに頼っている人は計画は完璧なくらいにしあげるのにまだ完璧ではないとなかなか実行に移しません。この例で挙げたように直感だけ、論理だけということになってしまいますとバランスがくずれ、偏ってしまう、と考えると同時に過去の偉人を振り返ってみると皆が直感と論理をバランスよく兼ね備えていたと思います。
そもそも何かを決断するときを思い起こしてみてください。その決断をする最後の一押しは自らの直感です。ただし、その決断に至った判断材料を明確にしてあげないと周りは納得してくれません。その判断材料は論理という過去の蓄積から学んでいくものであると僕は思っています。
最後に学校など教育機関で教えることは論理であると僕は思っています。論理は先ほど書かせていただいたようにあくまでも判断材料の蓄積なのです。そして、決断の最後の一押しは各自の直感になります。だからこそ僕は若い世代の人には論理を学ぶと同時に自分の感性を信じ、磨いていってほしいと思っています。感性といったものにも人は衰えというものがきます。歴史を振り返ってみても閉塞感を打破してきたのは若い新しい感性であり、勇気ある直感です。そのこれからの感性、直感が発揮されるように僕も論理という判断材料をこれからの世代に教えていきたいと思います。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2018-12-06T14:35:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>今日のブログでは直感と論理についての僕の考えをお話させていただければと思います。</p>
<p>直感と論理というと相反する概念のように感じられるかもしれませんが、僕はむしろ逆でこれらの２つの概念は互いを補完し、高めあうものであると考えています。このように考えるに至った理由を言っていく前に直感と論理はそれぞれ辞書にはどのような意味で書かれているかと言いますと、</p>
<p><strong>直感は推理や考察によらず、感覚によって物事の状況を瞬時に捉えること、論理は議論や論理を進めていく筋道、物事の間の法則的な繋がり</strong>と書かれています。このように辞書に書かれている意味だけでとらえると相反するようにみえますが、このいずれかに特化している人というのを考えていくと僕は偏った人をイメージしてしまいます。例えば、直感だけに頼っている人は行動は早いけど、根拠を整理していないので周りの人そして自分自身をかき乱します。逆に論理だけに頼っている人は計画は完璧なくらいにしあげるのにまだ完璧ではないとなかなか実行に移しません。この例で挙げたように直感だけ、論理だけということになってしまいますとバランスがくずれ、偏ってしまう、と考えると同時に過去の偉人を振り返ってみると皆が直感と論理をバランスよく兼ね備えていたと思います。</p>
<p>そもそも何かを決断するときを思い起こしてみてください。その<strong>決断をする最後の一押しは自らの直感</strong>です。ただし、その決断に至った判断材料を明確にしてあげないと周りは納得してくれません。その<strong>判断材料は論理という過去の蓄積から学んでいくもの</strong>であると僕は思っています。</p>
<p>最後に学校など教育機関で教えることは論理であると僕は思っています。論理は先ほど書かせていただいたようにあくまでも判断材料の蓄積なのです。そして、決断の最後の一押しは各自の直感になります。だからこそ僕は若い世代の人には論理を学ぶと同時に自分の感性を信じ、磨いていってほしいと思っています。感性といったものにも人は衰えというものがきます。歴史を振り返ってみても閉塞感を打破してきたのは若い新しい感性であり、勇気ある直感です。そのこれからの感性、直感が発揮されるように僕も論理という判断材料をこれからの世代に教えていきたいと思います。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
</div>
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<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2018/11/21674/">
<title>批判すること、されることを恐れるな</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2018/11/21674/</link>
<description>
&#160;皆さん、こんにちは。
今日のブログでは批判というものについての僕の考えをお話させていただけたらと思います。
まず批判という言葉を聞いて日本ではいい印象では捉えられないことが多いのですが、その原因は批判と非難が混同していることにあると僕は考えています。批判と非難は全く違うことを意味しますので、まずはこの２つの言葉の意味をおさらいしておきます。
批判とは物事についてよく調べ、考えた上でそのよしあし良し悪しなどを見極め、その物事について筋道を立てて意見を述べる行為の事を指します。それに対して非難とは相手の欠点、過失を責めたり、なじったりする行為の事を指します。このように批判と非難はその本質からして違います。基本的に僕は非難というものはするべきではないと考えています。ただし、例外として殺人など非人道的な行為をした人は非難されてもしょうがないとは思います。逆に批判はしていかないといけないと考えています。その理由は批判のない社会は権力者の独裁、暴走を許すことになると考えているからです。この権力者の独裁、暴走の例としては昨日の外国人労働者の受け入れの拡大する入管難民法の衆議院通過です。様々な方向から議論もぜず、内容の精査もきちんとせずに身内の簡単な審議だけで決めたこの行為は独裁、暴走以外の何物でもないと僕は思っています。僕たちがきちんと声をあげて批判することをしていかないとこのような権力者の独裁、暴走は簡単に起きてしまい、そしてどんどんエスカレートしていきます。そんなことが起きないようにするためにもきちんと批判をしていく。批判をするためにも普段から様々なことに関心をもって、そのことについての自分なりの考えというのを持ってほしいと僕は思います。
また、批判をするのであれば批判されることも当然避けては通れません。理由は簡単で人間誰１人として全く同じ考えをしているということがないからです。要は批判するされるという一連の流れは言い換えればその物事に対する健全な議論をすることと言えるのではないかと僕は思います。ここで一番やってはいけないのが批判を非難で返すことです。どうも日本では批判されると自分が非難されたと思う人が多いと感じるのですが、これでは批判をしてもらえません。批判されなくなるというのは自分１人の考えの枠の中に閉じこもってしまうということになります。そうならないためにも批判はされて当然という気構えでいてほしいと僕は願います。
最後にもう一度批判と非難の違いについておさらいしておきたいと思います。批判は物事についての調べ、考えがまずきての行為なので理性、知性の行為といえます。それに対して非難は相手を自分の感情で判断しての行為です。批判と非難を混同しないためにも日ごろから一呼吸おいて物事をとらえることを意識していってもらいたいと僕は思います。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志
</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2018-11-29T16:15:00+09:00</dc:date>
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<div class="cms-content-parts-sin154347690354457300" id="cms-editor-minieditor-sin154347690354456100">
<p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>今日のブログでは批判というものについての僕の考えをお話させていただけたらと思います。</p>
<p>まず批判という言葉を聞いて日本ではいい印象では捉えられないことが多いのですが、その原因は批判と非難が混同していることにあると僕は考えています。批判と非難は全く違うことを意味しますので、まずはこの２つの言葉の意味をおさらいしておきます。</p>
<p><strong>批判とは物事についてよく調べ、考えた上でそのよしあし良し悪しなどを見極め、その物事について筋道を立てて意見を述べる行為の事</strong>を指します。それに対して<strong>非難とは相手の欠点、過失を責めたり、なじったりする行為の事</strong>を指します。このように批判と非難はその本質からして違います。基本的に僕は非難というものはするべきではないと考えています。ただし、例外として殺人など非人道的な行為をした人は非難されてもしょうがないとは思います。逆に批判はしていかないといけないと考えています。その理由は<strong>批判のない社会は権力者の独裁、暴走を許すことになる</strong>と考えているからです。この権力者の独裁、暴走の例としては昨日の外国人労働者の受け入れの拡大する入管難民法の衆議院通過です。様々な方向から議論もぜず、内容の精査もきちんとせずに身内の簡単な審議だけで決めたこの行為は独裁、暴走以外の何物でもないと僕は思っています。僕たちがきちんと声をあげて批判することをしていかないとこのような権力者の独裁、暴走は簡単に起きてしまい、そしてどんどんエスカレートしていきます。そんなことが起きないようにするためにもきちんと批判をしていく。批判をするためにも<strong>普段から様々なことに関心をもって、そのことについての自分なりの考えというのを持ってほしい</strong>と僕は思います。</p>
<p>また、批判をするのであれば批判されることも当然避けては通れません。理由は簡単で人間誰１人として全く同じ考えをしているということがないからです。要は批判するされるという一連の流れは言い換えればその物事に対する健全な議論をすることと言えるのではないかと僕は思います。ここで一番やってはいけないのが批判を非難で返すことです。どうも日本では批判されると自分が非難されたと思う人が多いと感じるのですが、これでは批判をしてもらえません。批判されなくなるというのは自分１人の考えの枠の中に閉じこもってしまうということになります。そうならないためにも批判はされて当然という気構えでいてほしいと僕は願います。</p>
<p>最後にもう一度批判と非難の違いについておさらいしておきたいと思います<strong>。批判は物事についての調べ、考えがまずきての行為なので理性、知性の行為</strong>といえます。それに対して<strong>非難は相手を自分の感情で判断しての行為</strong>です。批判と非難を混同しないためにも日ごろから一呼吸おいて物事をとらえることを意識していってもらいたいと僕は思います。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
</div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2018/11/21673/">
<title>1つの判断ミスがみんなを不快にする...</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2018/11/21673/</link>
<description>
&#160;皆さん、こんにちは。
このブログは主に生徒、次世代の人の成長につながればという思いで書かせていただいています。そのとき一番成長の糧になるのが失敗の体験についての話だと僕は思っていますので、今日は僕の判断ミスによってその場にいる生徒全員を不快にさせてしまったときの話をさせていただければと思います。
昨日11/20（火）のことになります。授業が終わって生徒は明日の中間試験に向けて各自が自習をしているときにある生徒２人がおしゃべりを始めました。ここで僕は軽く注意を施すだけにしました。ただ、なかなか止まりません。このときの取った僕の行動はその生徒２人に自分で気付いたほしいと思って様子を見る、簡単な諭すような注意に終始しました。この後、生徒が帰るときに『何かあるなら、はっきり言ってほしい』と言われたとき、自分のやったことがきちんと自習している生徒だけでなく、注意された生徒も不快な思いをさせてしまっていたことに気付かされました。この判断ミスの原因を考えていくと、一番はわかってくれるだろうと僕が思い込んでしまったことです。生徒の立場からすると自分なりには気を付けてやっているのです。考えてみると、自分の行動がどういうふうに思われているのかを意識し、感じて修正するなんて大人でもできる人はそんなにいない高度な要求です。こういう行動ができるようにかみ砕いて指導していくのが僕ら教師の役目にも関わらず、このときの僕の行動はその役目を放棄したといっても過言ではない行動です。今はその場にいた生徒全員に申し訳ないことをしてしまったという気持ちです。
ただ、失敗をいつまでも引きずっても前には進みません。今回の件で何が駄目で何がいいのかの線引きをきちんとしないといけないことの大切さを再確認できました。だから次のこの子達の授業では基本ルールの周知徹底と駄目な行動とそうでない行動の線引きの徹底からしていくつもりです。最後にこのブログを読んでくれた人のなかに将来教師になりたいと思っている人に対して今日のこのブログの内容が役にたてば幸いです。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志

</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2018-11-21T14:15:00+09:00</dc:date>
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<div class="cms-content-parts-sin154277769272034900" id="cms-editor-minieditor-sin154277769272033700">
<p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>このブログは主に生徒、次世代の人の成長につながればという思いで書かせていただいています。そのとき一番成長の糧になるのが失敗の体験についての話だと僕は思っていますので、今日は僕の判断ミスによってその場にいる生徒全員を不快にさせてしまったときの話をさせていただければと思います。</p>
<p>昨日11/20（火）のことになります。授業が終わって生徒は明日の中間試験に向けて各自が自習をしているときにある生徒２人がおしゃべりを始めました。ここで僕は軽く注意を施すだけにしました。ただ、なかなか止まりません。このときの取った僕の行動はその生徒２人に自分で気付いたほしいと思って様子を見る、簡単な諭すような注意に終始しました。この後、生徒が帰るときに<strong>『何かあるなら、はっきり言ってほしい』</strong>と言われたとき、自分のやったことがきちんと自習している生徒だけでなく、注意された生徒も不快な思いをさせてしまっていたことに気付かされました。この判断ミスの原因を考えていくと、一番は<strong>わかってくれるだろうと僕が思い込んでしまったこと</strong>です。生徒の立場からすると自分なりには気を付けてやっているのです。考えてみると、自分の行動がどういうふうに思われているのかを意識し、感じて修正するなんて大人でもできる人はそんなにいない高度な要求です。こういう行動ができるようにかみ砕いて指導していくのが僕ら教師の役目にも関わらず、このときの僕の行動はその役目を放棄したといっても過言ではない行動です。今はその場にいた生徒全員に申し訳ないことをしてしまったという気持ちです。</p>
<p>ただ、失敗をいつまでも引きずっても前には進みません。今回の件で<strong>何が駄目で何がいいのかの線引き</strong>をきちんとしないといけないことの大切さを再確認できました。だから次のこの子達の授業では基本ルールの周知徹底と駄目な行動とそうでない行動の線引きの徹底からしていくつもりです。最後にこのブログを読んでくれた人のなかに将来教師になりたいと思っている人に対して今日のこのブログの内容が役にたてば幸いです。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
<p></p>
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<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2018/11/21672/">
<title>本当の配慮とは...</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2018/11/21672/</link>
<description>
&#160;皆さん、こんにちは。
今日のブログでは配慮という言葉の本質についてのお話しをさせていただければと思います。配慮という言葉は様々なところで使われていますが、配慮とは突き詰めていくといったいどういうことにつながるのか、そして配慮とは何を一番大切にしていかないといけないのかについて僕の考えをお話しさせていただけたらと思います。
まず配慮という言葉を辞書で調べてみると『相手のために気を配ること』という意味が表示されます。僕が思う配慮の本質は『相手のために』というところにあるのだと思います。ここで考えてみていただきたいのは東京オリンピックのプレゼンテーションで言われた『おもてなし』という言葉についてです。日本は配慮が行き届いたという意味で『おもてなし』という言葉を用いたと思いますが、果たして日本のおもてなし的な考えは本当の配慮といえるのでしょうか。例えばクールビズで考えてましょう。暑い日は夏服を着ましょうという進言ですが、正直こんなのはただのお節介でしかありません。暑い、寒いというのは個人差がありますし、そのときの健康状態も関係してきます。このクールビズ以外にも日本の考える配慮は行き過ぎたお節介になっているケースが多数あるという印象が僕にはあります。そして行き過ぎたお節介はただ相手に不快な思いをさせるだけです。どうしてこのような過剰なお節介が増えてきているのかを考えていくと『相手のために』という意識が足りないのではないかと僕は思っています。では『相手のために』という意識を持つにはどういうことを心掛けていかないといけないのかについて次は考えていきたいと思います。
『自分がやられて嫌なことは相手にするな』と言われたことがある人はたくさんいると思います。ただこの言葉で注意しないといけないのは自分と相手が同じような思考をしていると思いがちな点です。人は1人1人が違う個性を持っていますし、生まれや育った環境も違います。だからこそ人は違って当たり前という考えを持つことが重要なのではないのでしょうか。そう考えることで分かり合おうとするためにしっかりと対話を試みます。様々な対話をしていけば様々な考え方を吸収することができ自分の器が広がります。ただし、『自分がやられて嫌なことは相手にするな』をしなくていいというわけではありません。これは正直なところやって当たり前なことであると僕は思っています。そこは勘違いしないでください。
最後に人間とは人と人の間という字で表します。1人1人は違った個性の間に立って考えるためには配慮が必要不可欠です。そして配慮とはどこまでも相手のためと考える行為です。そしてこの相手とは自分の目の前の1人です。目の前の1人のことを想いやることができればその輪が広がり多くの人を想いやることができると僕は信じています。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志
</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2018-11-15T15:15:00+09:00</dc:date>
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<div class="cms-content-parts-sin154226520493373000" id="cms-editor-minieditor-sin154226520493372000">
<p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>今日のブログでは配慮という言葉の本質についてのお話しをさせていただければと思います。配慮という言葉は様々なところで使われていますが、配慮とは突き詰めていくといったいどういうことにつながるのか、そして配慮とは何を一番大切にしていかないといけないのかについて僕の考えをお話しさせていただけたらと思います。</p>
<p>まず配慮という言葉を辞書で調べてみると『相手のために気を配ること』という意味が表示されます。僕が思う<strong>配慮の本質は『相手のために』というところにある</strong>のだと思います。ここで考えてみていただきたいのは東京オリンピックのプレゼンテーションで言われた『おもてなし』という言葉についてです。日本は配慮が行き届いたという意味で『おもてなし』という言葉を用いたと思いますが、果たして日本のおもてなし的な考えは本当の配慮といえるのでしょうか。例えばクールビズで考えてましょう。暑い日は夏服を着ましょうという進言ですが、正直こんなのはただのお節介でしかありません。暑い、寒いというのは個人差がありますし、そのときの健康状態も関係してきます。このクールビズ以外にも日本の考える配慮は行き過ぎたお節介になっているケースが多数あるという印象が僕にはあります。そして行き過ぎたお節介はただ相手に不快な思いをさせるだけです。どうしてこのような過剰なお節介が増えてきているのかを考えていくと『相手のために』という意識が足りないのではないかと僕は思っています。では『相手のために』という意識を持つにはどういうことを心掛けていかないといけないのかについて次は考えていきたいと思います。</p>
<p><strong>『自分がやられて嫌なことは相手にするな』</strong>と言われたことがある人はたくさんいると思います。ただこの言葉で注意しないといけないのは<strong>自分と相手が同じような思考をしている</strong>と思いがちな点です。人は1人1人が違う個性を持っていますし、生まれや育った環境も違います。だからこそ<strong>人は違って当たり前</strong>という考えを持つことが重要なのではないのでしょうか。そう考えることで分かり合おうとするためにしっかりと対話を試みます。様々な対話をしていけば様々な考え方を吸収することができ自分の器が広がります。ただし、『自分がやられて嫌なことは相手にするな』をしなくていいというわけではありません。これは正直なところ<strong>やって当たり前なことである</strong>と僕は思っています。そこは勘違いしないでください。</p>
<p>最後に人間とは人と人の間という字で表します。1人1人は違った個性の間に立って考えるためには配慮が必要不可欠です。そして配慮とはどこまでも相手のためと考える行為です。そして<strong>この相手とは自分の目の前の1人</strong>です。目の前の1人のことを想いやることができればその輪が広がり多くの人を想いやることができると僕は信じています。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
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</item>

<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2018/11/21671/">
<title>大人とは...</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2018/11/21671/</link>
<description>
&#160;皆さん、こんにちは。
僕ら教師は子どもを大人に育てていくことが使命であると僕は考えています。しかしここで大きな疑問が浮かび上がってきます。『大人』というのはどのような存在なのかという疑問です。この疑問についてこれまで考えてきたのですが考えれば考えるほど明確な答えが出ないというのが現状です。そこで今日は僕の考える『大人』の定義についてお話させていただけたらと思います。
僕の考える『大人』の定義は大きく分けたら『周囲への配慮、気配りができること』、『自分の考え、言葉を持つこと』の２つです。
まず周囲への配慮、気配りと言ったら当たり前のことと思われるかもしれませんが、昨今の様々なニュースを見ていると周囲への影響などを考えての発言、行動ではなく、自分本位の発言、行動が目立っているのではないかという印象があります。この原因は自分の感情の起伏のコントロールできていないなど様々だとは思います。ただ、自分な立場をわかった上で周囲への影響を考えた発言、行動ができない人を僕は『大人』として見ることができません。だからこそ生徒、そしてこれからの若い世代には己の感情を理性で制御した上で自分な立場、周囲への影響を考えれるようになるために知性、配慮を学んでほしいと願っています。
そして自分の考え、言葉を持つというのは以前のブログでも書かせていただきましたが、どのような事に対しても自分なりの解釈ができるようになることが自分の考えであり、その解釈を他者へ伝える言葉が自分の言葉だと僕は定義しています。例えば専門用語や難しい言葉をわざと用いて説明する人を見ると自分なりの解釈をしているのかなと僕は疑ってしまいます。そうならないように生徒、若い世代には１つ１つの物事を自分なりの解釈を持って理解していくということを大切にしてほしいと願っています。
最後にこの２つのことに共通して必要なことがあります。それは『責任』です。『責任』がある人はこの２つのことどちらも兼ね備えた立派な『大人』です。しかしどちらか一方しかない人、または両方がない人には『責任』を感じることができません。周囲への配慮ができても自分の考えがない人は何かに依存したり、迎合したりします。また、自分の考えがあっても周囲への配慮ができない人は時に身勝手な行動をします。だからこそ２つそろって初めて『大人』といえるのだと僕は思っています。そのために必要なのが『責任』です。若い世代の皆さん、『責任』を養うためには普段から自分の言動の後始末は必ずするという意識を持ってください。その意識した行動の積み重ねが皆さんを次の世代が憧れるかっこいい『大人』へと導いてくれるはずです。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志


</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2018-11-08T14:30:00+09:00</dc:date>
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<div class="cms-content-parts-sin154165598926540000" id="cms-editor-minieditor-sin154165598926538500">
<p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>僕ら教師は子どもを大人に育てていくことが使命であると僕は考えています。しかしここで大きな疑問が浮かび上がってきます。『大人』というのはどのような存在なのかという疑問です。この疑問についてこれまで考えてきたのですが考えれば考えるほど明確な答えが出ないというのが現状です。そこで今日は僕の考える『大人』の定義についてお話させていただけたらと思います。</p>
<p>僕の考える『大人』の定義は大きく分けたら<strong>『周囲への配慮、気配りができること』</strong>、<strong>『自分の考え、言葉を持つこと』</strong>の２つです。</p>
<p>まず周囲への配慮、気配りと言ったら当たり前のことと思われるかもしれませんが、昨今の様々なニュースを見ていると周囲への影響などを考えての発言、行動ではなく、自分本位の発言、行動が目立っているのではないかという印象があります。この原因は自分の感情の起伏のコントロールできていないなど様々だとは思います。ただ、自分な立場をわかった上で周囲への影響を考えた発言、行動ができない人を僕は『大人』として見ることができません。だからこそ生徒、そしてこれからの若い世代には己の感情を理性で制御した上で自分な立場、周囲への影響を考えれるようになるために知性、配慮を学んでほしいと願っています。</p>
<p>そして自分の考え、言葉を持つというのは以前のブログでも書かせていただきましたが、どのような事に対しても自分なりの解釈ができるようになることが自分の考えであり、その解釈を他者へ伝える言葉が自分の言葉だと僕は定義しています。例えば専門用語や難しい言葉をわざと用いて説明する人を見ると自分なりの解釈をしているのかなと僕は疑ってしまいます。そうならないように生徒、若い世代には１つ１つの物事を自分なりの解釈を持って理解していくということを大切にしてほしいと願っています。</p>
<p>最後にこの２つのことに共通して必要なことがあります。それは<strong>『責任』</strong>です。『責任』がある人はこの２つのことどちらも兼ね備えた立派な『大人』です。しかしどちらか一方しかない人、または両方がない人には『責任』を感じることができません。周囲への配慮ができても自分の考えがない人は何かに依存したり、迎合したりします。また、自分の考えがあっても周囲への配慮ができない人は時に身勝手な行動をします。だからこそ２つそろって初めて『大人』といえるのだと僕は思っています。そのために必要なのが『責任』です。若い世代の皆さん、『責任』を養うためには普段から自分の言動の後始末は必ずするという意識を持ってください。その意識した行動の積み重ねが皆さんを次の世代が憧れるかっこいい『大人』へと導いてくれるはずです。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
<p></p>
<p></p>
</div>
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</item>

<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2018/11/21670/">
<title>他人は変えられない、しかし、自分は変えられる</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2018/11/21670/</link>
<description>&#160;皆さん、こんにちは。
今日は『変える』、『変わる』をテーマに僕の考えをお話しをさせていただければと思います。
まず今日のタイトルにも使っていますが、他人を変えられるのは本質的に不可能であると僕は考えています。その理由として馬を川に連れていくことはできても、水を飲ますことはできないというイギリスのことわざが示すように変えようと強制的に何かをやったところで本人がその気がないのではたいして効果はないからです。むしろ、逆効果になる可能性もあります。このように書くと教師が教育を放棄しているように捉える方もいらっしゃるかもしれませんが、教師は役割は生徒を変えることではありません。教師の役割は生徒自身が変わるためのきっかけや気づきを一緒に探すことではないかと僕は考えています。
また、他人を変えようとしますと必ず軋轢を生んだり、双方が疲れるといったことが起こります。それなのに多くの人は他人を変えようと躍起になります。その理由は自分を変えたくないと考えているためだと思います。自分を変えようと思ったらエネルギーを使います。そのため楽をしたいから他人を変えようとします。しかし、先ほど言ったように他人を変えようとすると必ず軋轢が生じ、たくさんのエネルギーを消費することになります。結局、他人を変えるにしろ、自分をかえるにしろエネルギーを消費することにはかわりません。では、そのどちらもしないということは社会に生きている以上不可能です。なぜなら、僕たちは社会から変わるように常に仕向られているからです。それならば、エネルギーの消費が少なくて、成果も出るのは自分を変えていく方です。ですから、他人を変えようとするならばそのエネルギーを自分を変えることに使ったほうがよっぽど効果的です。
最後に脱皮できない蛇は死ぬと言われていますが、自分を変えていかないとこの変化の激しい時代ではすぐに自分を見失ってしまいます。自分をしっかりと持つ意味でも多くの人がまずは自分から変わっていこうという意識を持っていただきたいと思います。その意識が変えるという挑戦を生み、その挑戦の軌跡がその人だけの人生になるのですから。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志

</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2018-11-01T11:50:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin154104571062853100" class="cms-content-parts-sin154104571062854600"><p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>今日は『変える』、『変わる』をテーマに僕の考えをお話しをさせていただければと思います。</p>
<p>まず今日のタイトルにも使っていますが、<strong>他人を変えられるのは本質的に不可能である</strong>と僕は考えています。その理由として馬を川に連れていくことはできても、水を飲ますことはできないというイギリスのことわざが示すように変えようと強制的に何かをやったところで本人がその気がないのではたいして効果はないからです。むしろ、逆効果になる可能性もあります。このように書くと教師が教育を放棄しているように捉える方もいらっしゃるかもしれませんが、教師は役割は生徒を変えることではありません。<strong>教師の役割は生徒自身が変わるためのきっかけや気づきを一緒に探すこと</strong>ではないかと僕は考えています。</p>
<p>また、他人を変えようとしますと必ず軋轢を生んだり、双方が疲れるといったことが起こります。それなのに多くの人は他人を変えようと躍起になります。その理由は<strong>自分を変えたくないと考えている</strong>ためだと思います。自分を変えようと思ったらエネルギーを使います。そのため楽をしたいから他人を変えようとします。しかし、先ほど言ったように他人を変えようとすると必ず軋轢が生じ、たくさんのエネルギーを消費することになります。結局、他人を変えるにしろ、自分をかえるにしろエネルギーを消費することにはかわりません。では、そのどちらもしないということは社会に生きている以上不可能です。なぜなら、僕たちは社会から変わるように常に仕向られているからです。それならば、エネルギーの消費が少なくて、成果も出るのは自分を変えていく方です。ですから、他人を変えようとするならばそのエネルギーを自分を変えることに使ったほうがよっぽど効果的です。</p>
<p>最後に<strong>脱皮できない蛇は死ぬ</strong>と言われていますが、自分を変えていかないとこの変化の激しい時代ではすぐに自分を見失ってしまいます。自分をしっかりと持つ意味でも多くの人がまずは自分から変わっていこうという意識を持っていただきたいと思います。その意識が<strong>変えるという挑戦を生み、その挑戦の軌跡がその人だけの人生になる</strong>のですから。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
<p></p>
<p></p></div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2018/10/21669/">
<title>自分の言葉</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2018/10/21669/</link>
<description>
&#160;皆さん、こんにちは。
今日のブログのタイトルである『自分の言葉』とはどういうことなのか、そして『自分の言葉』を持つにはどうしていけばいいのかということについての僕の考えをお話させていただければと思います。
まず『自分の言葉』とはどのようなことなのかというと、僕はどんなことに関しても自分の持っている知識、知恵、考えを用いて創られた言葉と定義しています。例えば、会社で社長が売り上げを上げろと号令を出して、その下の立場の課長が同じように現場に向かってただ売り上げを上げろと言ったのではその言葉は社長の言葉であって課長の言葉ではありません。これが売り上げを上げるために課長が自分達の課はどういうことに取り組まないといけないのかと試行錯誤した上で現場に伝える言葉というのが僕の考える『自分の言葉』です。残念なことなのですが、前者のような課長が日本にはまだまだいるなというのが僕の印象です。しかし、これからは個人の時代になると言われているなかで『自分の言葉』を持たない人は時代についていけなくなるのではないかと僕は危惧しています。では、『自分の言葉』を持つにはどうすればいいのかを話していきたいと思います。
『自分の言葉』を持つための取り組みについては、まだまだ未熟なのですが、僕が教師になってから今に至る約１５年間の取り組みを話していきたいと思います。僕が目指したのは『生徒のどのような質問に対しても自分の考え、意見を言えるようになること』でした。とはいえ具体的にどうすればいいのかなんてわかりませんし、特別な研修みたいなものもありません。そこで僕がやったのは次の２点だけです。
　　　　①　様々なジャンルの本を買って読む　②　読んだ本の気になったところなどをノートにまとめる
ここでのポイントは本を買うということ、インプット、アウトプットを意識せずに自分の血肉にするつもりで読むということです。その理由は借りた本に書き込みができないというのもありますが、一番の理由は自分の成長に対して本気になりたいのがあります。インプット、アウトプットを意識しないのはすぐに使えるものはすぐに使えなくなると考えているからです。ですので意識としては血肉にするになります。言い換えれば１つ１つの内容を自分で定義し直すという感じになります。一応この取り組みは今も現在進行形で続けることができています。その僕が『自分の言葉』を持っているかどうかは自分では判断できないので周りの皆さんの判断に委ねるしかありません。
最後に『自分の言葉』をある人とない人の一番の違いは言葉の重さだと僕は思います。感覚的なことで申し訳ないのですが、同じような言葉を使っても言葉に重さがある人と重さを感じない人がいます。この差は責任感、決意といったもののあるなしではないかと僕は思います。『自分の言葉』を持つとは言い換えれば自分に責任感、決意というものを宿らせることであると僕は思っています。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志
</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2018-10-25T14:40:00+09:00</dc:date>
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<div class="cms-content-parts-sin154044620161404000" id="cms-editor-minieditor-sin154044620161403000">
<p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>今日のブログのタイトルである『自分の言葉』とはどういうことなのか、そして『自分の言葉』を持つにはどうしていけばいいのかということについての僕の考えをお話させていただければと思います。</p>
<p>まず『自分の言葉』とはどのようなことなのかというと、僕は<strong>どんなことに関しても自分の持っている知識、知恵、考えを用いて創られた言葉</strong>と定義しています。例えば、会社で社長が売り上げを上げろと号令を出して、その下の立場の課長が同じように現場に向かってただ売り上げを上げろと言ったのではその言葉は社長の言葉であって課長の言葉ではありません。これが売り上げを上げるために課長が自分達の課はどういうことに取り組まないといけないのかと試行錯誤した上で現場に伝える言葉というのが僕の考える『自分の言葉』です。残念なことなのですが、前者のような課長が日本にはまだまだいるなというのが僕の印象です。しかし、これからは個人の時代になると言われているなかで『自分の言葉』を持たない人は時代についていけなくなるのではないかと僕は危惧しています。では、『自分の言葉』を持つにはどうすればいいのかを話していきたいと思います。</p>
<p>『自分の言葉』を持つための取り組みについては、まだまだ未熟なのですが、僕が教師になってから今に至る約１５年間の取り組みを話していきたいと思います。僕が目指したのは<strong>『生徒のどのような質問に対しても自分の考え、意見を言えるようになること』</strong>でした。とはいえ具体的にどうすればいいのかなんてわかりませんし、特別な研修みたいなものもありません。そこで僕がやったのは次の２点だけです。</p>
<p>　　　　<strong>①　様々なジャンルの本を買って読む　②　読んだ本の気になったところなどをノートにまとめる</strong></p>
<p>ここでのポイントは本を買うということ、インプット、アウトプットを意識せずに自分の血肉にするつもりで読むということです。その理由は借りた本に書き込みができないというのもありますが、一番の理由は自分の成長に対して本気になりたいのがあります。インプット、アウトプットを意識しないのは<strong>すぐに使えるものはすぐに使えなくなる</strong>と考えているからです。ですので意識としては血肉にするになります。言い換えれば１つ１つの内容を自分で定義し直すという感じになります。一応この取り組みは今も現在進行形で続けることができています。その僕が『自分の言葉』を持っているかどうかは自分では判断できないので周りの皆さんの判断に委ねるしかありません。</p>
<p>最後に『自分の言葉』をある人とない人の一番の違いは<strong>言葉の重さ</strong>だと僕は思います。感覚的なことで申し訳ないのですが、同じような言葉を使っても言葉に重さがある人と重さを感じない人がいます。この差は責任感、決意といったもののあるなしではないかと僕は思います。『自分の言葉』を持つとは言い換えれば自分に責任感、決意というものを宿らせることであると僕は思っています。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
</div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2018/10/21668/">
<title>勇気は一瞬、後悔は一生</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2018/10/21668/</link>
<description>
&#160;皆さん、こんにちは。
今回のブログのタイトルは塾に通ってくれている生徒が今のお気に入りの言葉だと僕に教えてくれたものです。とてもいい言葉なので、この言葉はどのような場面で生きてくるのかと考えられるのか、僕の考えをお話させていただければと思います。
このタイトルの言葉で思い浮かぶ場面は新しいことに挑戦するかで迷っているときです。この『新しいこと』は大体の人が進学、留学、就職、転職、起業など、主に仕事上の転機のことを想定されると思います。だからこそ、思い切って挑戦するかどうかなかなか決められないのだと思います。しかし、決断を自分でしなかったら必ず後悔をします。しかもその後悔は一生つきまといます。この事は多くの人が分かっていると思いますが、それでもなかなか決断できないというのは決断する一瞬の勇気より現状維持したい気持ちが上回っているということです。そう考えていると、勇気がある人は別世界の人のように感じるかもしれませんが、勇気を養うことは誰にでもできると僕は思っています。では、勇気とはどうやって身につけるればいいの、僕の考えを話しいきたいと思います。
結論から申し上げますと、普段から決断を下すための判断材料を探すようにしていくことです。具体的なやり方を言っていくと、毎日のニュースなんかを必ず当事者意識でみて、自分がその立場ならどういう判断をするかをイメージする。もちろん理由も明確にします。これを習慣化するだけで自分の決断を下すときの判断基準を明確化できます。判断基準が明確になれば後はそれに従って決断すればいいだけです。つまり勇気とは言い換えれば自分の明確な判断基準といえるのではないかと僕は思っています。
最後に今日は『新しいこと』を仕事上の転機としてお話しさせていただきましたが、新しい習慣に取り組むこと、行った事のないところへ行くということも『新しいこと』への挑戦と僕は思っています。そう考えると僕たちは普段から何気なく決断をしているともいえます。ですので、普段の何気ない決断の理由を考えることも勇気につながるはずです。明確な自分の判断基準をもってしまえばその基準に従って決めているだけという感覚になるはずです。それでも迷ったり、躊躇するようならこう思ってください。
『勇気は一瞬、後悔は一生、１つの決断が未知への扉を開いてくれる』と。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志



</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2018-10-18T14:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<div class="cms-content-parts-sin153983971224338500" id="cms-editor-minieditor-sin153983971224337200">
<p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>今回のブログのタイトルは塾に通ってくれている生徒が今のお気に入りの言葉だと僕に教えてくれたものです。とてもいい言葉なので、この言葉はどのような場面で生きてくるのかと考えられるのか、僕の考えをお話させていただければと思います。</p>
<p>このタイトルの言葉で思い浮かぶ場面は新しいことに挑戦するかで迷っているときです。この『新しいこと』は大体の人が進学、留学、就職、転職、起業など、主に仕事上の転機のことを想定されると思います。だからこそ、思い切って挑戦するかどうかなかなか決められないのだと思います。しかし、決断を自分でしなかったら必ず後悔をします。しかもその後悔は一生つきまといます。この事は多くの人が分かっていると思いますが、それでもなかなか決断できないというのは決断する一瞬の勇気より現状維持したい気持ちが上回っているということです。そう考えていると、勇気がある人は別世界の人のように感じるかもしれませんが、勇気を養うことは誰にでもできると僕は思っています。では、勇気とはどうやって身につけるればいいの、僕の考えを話しいきたいと思います。</p>
<p>結論から申し上げますと、普段から決断を下すための判断材料を探すようにしていくことです。具体的なやり方を言っていくと、毎日のニュースなんかを必ず当事者意識でみて、自分がその立場ならどういう判断をするかをイメージする。もちろん理由も明確にします。これを習慣化するだけで自分の決断を下すときの判断基準を明確化できます。判断基準が明確になれば後はそれに従って決断すればいいだけです。つまり<strong>勇気とは言い換えれば自分の明確な判断基準</strong>といえるのではないかと僕は思っています。</p>
<p>最後に今日は『新しいこと』を仕事上の転機としてお話しさせていただきましたが、新しい習慣に取り組むこと、行った事のないところへ行くということも『新しいこと』への挑戦と僕は思っています。そう考えると僕たちは普段から何気なく決断をしているともいえます。ですので、普段の何気ない決断の理由を考えることも勇気につながるはずです。明確な自分の判断基準をもってしまえばその基準に従って決めているだけという感覚になるはずです。それでも迷ったり、躊躇するようならこう思ってください。</p>
<p><strong>『勇気は一瞬、後悔は一生、１つの決断が未知への扉を開いてくれる』</strong>と。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
<p></p>
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<item rdf:about="https://rr-education.jp/blog/2018/10/21667/">
<title>成長とは②</title>
<link>https://rr-education.jp/blog/2018/10/21667/</link>
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&#160;皆さん、こんにちは。
今日のブログは前回に引き続き成長をテーマに僕の考えをお話しさせていただけたらと思います。
前回のブログでは自信を過信と勘違いしている人が増えていると書かせていただきました。ただ、昨今それと同じくらいに自尊心がない人も増えてきているなという印象を僕は抱いています。特に若い世代の間で自尊心がない人が多いという印象です。そこで今回は前回とは逆に自信がない人が自信をつけていくための方法についてをお話ししていきます。
自信をつけるには成功体験の積み重ねが必要である、というのはいろいろなところで言われていることで僕もその通りだと思います。ただ、成功体験を積み重ねようと思ったら必ず失敗をすることは避けて通れないのです。なぜなら成功を実感するためには自分で判断し、決断し行動する必要があり、判断を１回も間違えない人間なんて僕の知っている限り１人もいません。だから、成功体験＝失敗体験といってもいいのではないかと僕は思っています。何事も初めから上手くいくことなんてありません。失敗という名の試行錯誤を積み重ねて成功という名の結果が生まれると考えると、失敗体験➡成功体験➡失敗体験➡成功体験➡・・・のサイクルをつくることが自信の養うことにつながるのではないのでしょうか。失敗というのは確かにそのときは周りの人たちに迷惑をかけたりすることになります。だから、若い世代の人はそのことを気にするのかもしれませんが、周りに迷惑をかけない人間なんてこの世に１人たりともいません。それこそ、何かあったらお互い様という気持ちでいいのだと僕は思っています。
最後になりますが、成功体験の積み重ねとは同時に失敗体験の積み重ねでもあるのです。だからこそ、失敗というものについての捉え方を今一度考えてみてもらいたいなと僕は思います。捉え方を変えると物事の見方もきっと変わってくるはずです。
R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志

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<dc:date>2018-10-11T14:55:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;皆さん、こんにちは。</p>
<p>今日のブログは前回に引き続き成長をテーマに僕の考えをお話しさせていただけたらと思います。</p>
<p>前回のブログでは自信を過信と勘違いしている人が増えていると書かせていただきました。ただ、昨今それと同じくらいに自尊心がない人も増えてきているなという印象を僕は抱いています。特に若い世代の間で自尊心がない人が多いという印象です。そこで今回は前回とは逆に自信がない人が自信をつけていくための方法についてをお話ししていきます。</p>
<p><strong>自信をつけるには成功体験の積み重ねが必要</strong>である、というのはいろいろなところで言われていることで僕もその通りだと思います。ただ、成功体験を積み重ねようと思ったら必ず失敗をすることは避けて通れないのです。なぜなら成功を実感するためには自分で判断し、決断し行動する必要があり、判断を１回も間違えない人間なんて僕の知っている限り１人もいません。だから、<strong>成功体験＝失敗体験</strong>といってもいいのではないかと僕は思っています。何事も初めから上手くいくことなんてありません。失敗という名の試行錯誤を積み重ねて成功という名の結果が生まれると考えると、<strong>失敗体験➡成功体験➡失敗体験➡成功体験➡・・・のサイクルをつくること</strong>が自信の養うことにつながるのではないのでしょうか。失敗というのは確かにそのときは周りの人たちに迷惑をかけたりすることになります。だから、若い世代の人はそのことを気にするのかもしれませんが、周りに迷惑をかけない人間なんてこの世に１人たりともいません。それこそ、何かあったらお互い様という気持ちでいいのだと僕は思っています。</p>
<p>最後になりますが、成功体験の積み重ねとは同時に失敗体験の積み重ねでもあるのです。だからこそ、失敗というものについての捉え方を今一度考えてみてもらいたいなと僕は思います。捉え方を変えると物事の見方もきっと変わってくるはずです。</p>
<p>R＆Ｒ教育研究所　中村　淳志</p>
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