ブログ
2018.12.13
選挙権を持つことの意味
皆さん、こんにちは。
今日はタイトルにもあるように選挙権についての話をさせていただこうと思います。そして、選挙権を持つという事は政治、経済に関心を持って、1つ1つの政策や政策方針に対して自分の意見を持っていかないといけないことを意味すると僕は思っています。その自分の意見は選挙への投票という形で世間に反映させることは国民としての責任です。昨今、特に20、30代の投票率が低下しています。その理由としては『政治がよくわからない』『行っても何も変わらない』といったところです。しかし、選挙に行かないということは政治という国や自治体の運営に参加しないということです。国や自治体の運営に参加しないのに公共施設のサービスを受けたりするのはとてもズルい行為であると僕は思っています。ですので、行っても変わらないと言って選挙に行かない人は言い方は過激になりますが、国民みんなで創ってきた公共サービスや保証を受ける資格があるのでしょうか。1人1人が責任を果たした上での公共サービスであり、社会保障であるのだと僕は考えています。戦後、日本は民主主義国家になり、その主権つまり主役は国民1人1人になりました。このことが意味するのは日本という国をどういう国にしていくかを国民みんなで考えていこうということです。つまり選挙権を持つということは同時に社会、政治、経済といった国の運営について考えていく責任を持つことでもあると僕は思っています。
ここまで選挙権についての僕の考えを述べさせていただきましたが、そこには1人1人の国民(特に若い世代)が社会、政治、経済について関心を持って声をあげていかないとこの国は危ない、極端に言ってしまえば沈んでしまうという思いがあるためです。どれだけ小さくとも声を上げなければ現状は変わりませんし、権力者の独裁、暴走を許すことにもつながってしまいます。その声をあげる一番身近な機会が選挙への投票です。選挙で投票できるように普段から社会、政治、経済に関心を持ち、そしてこの国がどんな国になっていってほしいか次世代の皆さんには考えていってほしいと僕は願っています。
最後に現在の選挙権は18歳からです。つまり18歳からは今日ブログで書かせてもらった責任が生じるということです。中学生、高校生の皆さん、君たちにもその責任はすぐに生じます。すぐに社会、政治、経済に関心を持って考えろと言っても難しいかもしれませんが、新聞を読むなどしてちょっとずつ関心を持つところから始めていただければと思います。次回は中学生、高校生の政治、経済への関心のきっかけになればと思い、昨今の政策についての話をさせていただければと思います。
R&R教育研究所 中村 淳志
2018.12.06
直感と論理
皆さん、こんにちは。
今日のブログでは直感と論理についての僕の考えをお話させていただければと思います。
直感と論理というと相反する概念のように感じられるかもしれませんが、僕はむしろ逆でこれらの2つの概念は互いを補完し、高めあうものであると考えています。このように考えるに至った理由を言っていく前に直感と論理はそれぞれ辞書にはどのような意味で書かれているかと言いますと、
直感は推理や考察によらず、感覚によって物事の状況を瞬時に捉えること、論理は議論や論理を進めていく筋道、物事の間の法則的な繋がりと書かれています。このように辞書に書かれている意味だけでとらえると相反するようにみえますが、このいずれかに特化している人というのを考えていくと僕は偏った人をイメージしてしまいます。例えば、直感だけに頼っている人は行動は早いけど、根拠を整理していないので周りの人そして自分自身をかき乱します。逆に論理だけに頼っている人は計画は完璧なくらいにしあげるのにまだ完璧ではないとなかなか実行に移しません。この例で挙げたように直感だけ、論理だけということになってしまいますとバランスがくずれ、偏ってしまう、と考えると同時に過去の偉人を振り返ってみると皆が直感と論理をバランスよく兼ね備えていたと思います。
そもそも何かを決断するときを思い起こしてみてください。その決断をする最後の一押しは自らの直感です。ただし、その決断に至った判断材料を明確にしてあげないと周りは納得してくれません。その判断材料は論理という過去の蓄積から学んでいくものであると僕は思っています。
最後に学校など教育機関で教えることは論理であると僕は思っています。論理は先ほど書かせていただいたようにあくまでも判断材料の蓄積なのです。そして、決断の最後の一押しは各自の直感になります。だからこそ僕は若い世代の人には論理を学ぶと同時に自分の感性を信じ、磨いていってほしいと思っています。感性といったものにも人は衰えというものがきます。歴史を振り返ってみても閉塞感を打破してきたのは若い新しい感性であり、勇気ある直感です。そのこれからの感性、直感が発揮されるように僕も論理という判断材料をこれからの世代に教えていきたいと思います。
R&R教育研究所 中村 淳志
2018.11.29
批判すること、されることを恐れるな
皆さん、こんにちは。
今日のブログでは批判というものについての僕の考えをお話させていただけたらと思います。
まず批判という言葉を聞いて日本ではいい印象では捉えられないことが多いのですが、その原因は批判と非難が混同していることにあると僕は考えています。批判と非難は全く違うことを意味しますので、まずはこの2つの言葉の意味をおさらいしておきます。
批判とは物事についてよく調べ、考えた上でそのよしあし良し悪しなどを見極め、その物事について筋道を立てて意見を述べる行為の事を指します。それに対して非難とは相手の欠点、過失を責めたり、なじったりする行為の事を指します。このように批判と非難はその本質からして違います。基本的に僕は非難というものはするべきではないと考えています。ただし、例外として殺人など非人道的な行為をした人は非難されてもしょうがないとは思います。逆に批判はしていかないといけないと考えています。その理由は批判のない社会は権力者の独裁、暴走を許すことになると考えているからです。この権力者の独裁、暴走の例としては昨日の外国人労働者の受け入れの拡大する入管難民法の衆議院通過です。様々な方向から議論もぜず、内容の精査もきちんとせずに身内の簡単な審議だけで決めたこの行為は独裁、暴走以外の何物でもないと僕は思っています。僕たちがきちんと声をあげて批判することをしていかないとこのような権力者の独裁、暴走は簡単に起きてしまい、そしてどんどんエスカレートしていきます。そんなことが起きないようにするためにもきちんと批判をしていく。批判をするためにも普段から様々なことに関心をもって、そのことについての自分なりの考えというのを持ってほしいと僕は思います。
また、批判をするのであれば批判されることも当然避けては通れません。理由は簡単で人間誰1人として全く同じ考えをしているということがないからです。要は批判するされるという一連の流れは言い換えればその物事に対する健全な議論をすることと言えるのではないかと僕は思います。ここで一番やってはいけないのが批判を非難で返すことです。どうも日本では批判されると自分が非難されたと思う人が多いと感じるのですが、これでは批判をしてもらえません。批判されなくなるというのは自分1人の考えの枠の中に閉じこもってしまうということになります。そうならないためにも批判はされて当然という気構えでいてほしいと僕は願います。
最後にもう一度批判と非難の違いについておさらいしておきたいと思います。批判は物事についての調べ、考えがまずきての行為なので理性、知性の行為といえます。それに対して非難は相手を自分の感情で判断しての行為です。批判と非難を混同しないためにも日ごろから一呼吸おいて物事をとらえることを意識していってもらいたいと僕は思います。
R&R教育研究所 中村 淳志
2018.11.21
1つの判断ミスがみんなを不快にする...
皆さん、こんにちは。
このブログは主に生徒、次世代の人の成長につながればという思いで書かせていただいています。そのとき一番成長の糧になるのが失敗の体験についての話だと僕は思っていますので、今日は僕の判断ミスによってその場にいる生徒全員を不快にさせてしまったときの話をさせていただければと思います。
昨日11/20(火)のことになります。授業が終わって生徒は明日の中間試験に向けて各自が自習をしているときにある生徒2人がおしゃべりを始めました。ここで僕は軽く注意を施すだけにしました。ただ、なかなか止まりません。このときの取った僕の行動はその生徒2人に自分で気付いたほしいと思って様子を見る、簡単な諭すような注意に終始しました。この後、生徒が帰るときに『何かあるなら、はっきり言ってほしい』と言われたとき、自分のやったことがきちんと自習している生徒だけでなく、注意された生徒も不快な思いをさせてしまっていたことに気付かされました。この判断ミスの原因を考えていくと、一番はわかってくれるだろうと僕が思い込んでしまったことです。生徒の立場からすると自分なりには気を付けてやっているのです。考えてみると、自分の行動がどういうふうに思われているのかを意識し、感じて修正するなんて大人でもできる人はそんなにいない高度な要求です。こういう行動ができるようにかみ砕いて指導していくのが僕ら教師の役目にも関わらず、このときの僕の行動はその役目を放棄したといっても過言ではない行動です。今はその場にいた生徒全員に申し訳ないことをしてしまったという気持ちです。
ただ、失敗をいつまでも引きずっても前には進みません。今回の件で何が駄目で何がいいのかの線引きをきちんとしないといけないことの大切さを再確認できました。だから次のこの子達の授業では基本ルールの周知徹底と駄目な行動とそうでない行動の線引きの徹底からしていくつもりです。最後にこのブログを読んでくれた人のなかに将来教師になりたいと思っている人に対して今日のこのブログの内容が役にたてば幸いです。
R&R教育研究所 中村 淳志
2018.11.15
本当の配慮とは...
皆さん、こんにちは。
今日のブログでは配慮という言葉の本質についてのお話しをさせていただければと思います。配慮という言葉は様々なところで使われていますが、配慮とは突き詰めていくといったいどういうことにつながるのか、そして配慮とは何を一番大切にしていかないといけないのかについて僕の考えをお話しさせていただけたらと思います。
まず配慮という言葉を辞書で調べてみると『相手のために気を配ること』という意味が表示されます。僕が思う配慮の本質は『相手のために』というところにあるのだと思います。ここで考えてみていただきたいのは東京オリンピックのプレゼンテーションで言われた『おもてなし』という言葉についてです。日本は配慮が行き届いたという意味で『おもてなし』という言葉を用いたと思いますが、果たして日本のおもてなし的な考えは本当の配慮といえるのでしょうか。例えばクールビズで考えてましょう。暑い日は夏服を着ましょうという進言ですが、正直こんなのはただのお節介でしかありません。暑い、寒いというのは個人差がありますし、そのときの健康状態も関係してきます。このクールビズ以外にも日本の考える配慮は行き過ぎたお節介になっているケースが多数あるという印象が僕にはあります。そして行き過ぎたお節介はただ相手に不快な思いをさせるだけです。どうしてこのような過剰なお節介が増えてきているのかを考えていくと『相手のために』という意識が足りないのではないかと僕は思っています。では『相手のために』という意識を持つにはどういうことを心掛けていかないといけないのかについて次は考えていきたいと思います。
『自分がやられて嫌なことは相手にするな』と言われたことがある人はたくさんいると思います。ただこの言葉で注意しないといけないのは自分と相手が同じような思考をしていると思いがちな点です。人は1人1人が違う個性を持っていますし、生まれや育った環境も違います。だからこそ人は違って当たり前という考えを持つことが重要なのではないのでしょうか。そう考えることで分かり合おうとするためにしっかりと対話を試みます。様々な対話をしていけば様々な考え方を吸収することができ自分の器が広がります。ただし、『自分がやられて嫌なことは相手にするな』をしなくていいというわけではありません。これは正直なところやって当たり前なことであると僕は思っています。そこは勘違いしないでください。
最後に人間とは人と人の間という字で表します。1人1人は違った個性の間に立って考えるためには配慮が必要不可欠です。そして配慮とはどこまでも相手のためと考える行為です。そしてこの相手とは自分の目の前の1人です。目の前の1人のことを想いやることができればその輪が広がり多くの人を想いやることができると僕は信じています。
R&R教育研究所 中村 淳志
2018.11.08
大人とは...
皆さん、こんにちは。
僕ら教師は子どもを大人に育てていくことが使命であると僕は考えています。しかしここで大きな疑問が浮かび上がってきます。『大人』というのはどのような存在なのかという疑問です。この疑問についてこれまで考えてきたのですが考えれば考えるほど明確な答えが出ないというのが現状です。そこで今日は僕の考える『大人』の定義についてお話させていただけたらと思います。
僕の考える『大人』の定義は大きく分けたら『周囲への配慮、気配りができること』、『自分の考え、言葉を持つこと』の2つです。
まず周囲への配慮、気配りと言ったら当たり前のことと思われるかもしれませんが、昨今の様々なニュースを見ていると周囲への影響などを考えての発言、行動ではなく、自分本位の発言、行動が目立っているのではないかという印象があります。この原因は自分の感情の起伏のコントロールできていないなど様々だとは思います。ただ、自分な立場をわかった上で周囲への影響を考えた発言、行動ができない人を僕は『大人』として見ることができません。だからこそ生徒、そしてこれからの若い世代には己の感情を理性で制御した上で自分な立場、周囲への影響を考えれるようになるために知性、配慮を学んでほしいと願っています。
そして自分の考え、言葉を持つというのは以前のブログでも書かせていただきましたが、どのような事に対しても自分なりの解釈ができるようになることが自分の考えであり、その解釈を他者へ伝える言葉が自分の言葉だと僕は定義しています。例えば専門用語や難しい言葉をわざと用いて説明する人を見ると自分なりの解釈をしているのかなと僕は疑ってしまいます。そうならないように生徒、若い世代には1つ1つの物事を自分なりの解釈を持って理解していくということを大切にしてほしいと願っています。
最後にこの2つのことに共通して必要なことがあります。それは『責任』です。『責任』がある人はこの2つのことどちらも兼ね備えた立派な『大人』です。しかしどちらか一方しかない人、または両方がない人には『責任』を感じることができません。周囲への配慮ができても自分の考えがない人は何かに依存したり、迎合したりします。また、自分の考えがあっても周囲への配慮ができない人は時に身勝手な行動をします。だからこそ2つそろって初めて『大人』といえるのだと僕は思っています。そのために必要なのが『責任』です。若い世代の皆さん、『責任』を養うためには普段から自分の言動の後始末は必ずするという意識を持ってください。その意識した行動の積み重ねが皆さんを次の世代が憧れるかっこいい『大人』へと導いてくれるはずです。
R&R教育研究所 中村 淳志
2018.11.01
他人は変えられない、しかし、自分は変えられる
皆さん、こんにちは。
今日は『変える』、『変わる』をテーマに僕の考えをお話しをさせていただければと思います。
まず今日のタイトルにも使っていますが、他人を変えられるのは本質的に不可能であると僕は考えています。その理由として馬を川に連れていくことはできても、水を飲ますことはできないというイギリスのことわざが示すように変えようと強制的に何かをやったところで本人がその気がないのではたいして効果はないからです。むしろ、逆効果になる可能性もあります。このように書くと教師が教育を放棄しているように捉える方もいらっしゃるかもしれませんが、教師は役割は生徒を変えることではありません。教師の役割は生徒自身が変わるためのきっかけや気づきを一緒に探すことではないかと僕は考えています。
また、他人を変えようとしますと必ず軋轢を生んだり、双方が疲れるといったことが起こります。それなのに多くの人は他人を変えようと躍起になります。その理由は自分を変えたくないと考えているためだと思います。自分を変えようと思ったらエネルギーを使います。そのため楽をしたいから他人を変えようとします。しかし、先ほど言ったように他人を変えようとすると必ず軋轢が生じ、たくさんのエネルギーを消費することになります。結局、他人を変えるにしろ、自分をかえるにしろエネルギーを消費することにはかわりません。では、そのどちらもしないということは社会に生きている以上不可能です。なぜなら、僕たちは社会から変わるように常に仕向られているからです。それならば、エネルギーの消費が少なくて、成果も出るのは自分を変えていく方です。ですから、他人を変えようとするならばそのエネルギーを自分を変えることに使ったほうがよっぽど効果的です。
最後に脱皮できない蛇は死ぬと言われていますが、自分を変えていかないとこの変化の激しい時代ではすぐに自分を見失ってしまいます。自分をしっかりと持つ意味でも多くの人がまずは自分から変わっていこうという意識を持っていただきたいと思います。その意識が変えるという挑戦を生み、その挑戦の軌跡がその人だけの人生になるのですから。
R&R教育研究所 中村 淳志
2018.10.25
自分の言葉
皆さん、こんにちは。
今日のブログのタイトルである『自分の言葉』とはどういうことなのか、そして『自分の言葉』を持つにはどうしていけばいいのかということについての僕の考えをお話させていただければと思います。
まず『自分の言葉』とはどのようなことなのかというと、僕はどんなことに関しても自分の持っている知識、知恵、考えを用いて創られた言葉と定義しています。例えば、会社で社長が売り上げを上げろと号令を出して、その下の立場の課長が同じように現場に向かってただ売り上げを上げろと言ったのではその言葉は社長の言葉であって課長の言葉ではありません。これが売り上げを上げるために課長が自分達の課はどういうことに取り組まないといけないのかと試行錯誤した上で現場に伝える言葉というのが僕の考える『自分の言葉』です。残念なことなのですが、前者のような課長が日本にはまだまだいるなというのが僕の印象です。しかし、これからは個人の時代になると言われているなかで『自分の言葉』を持たない人は時代についていけなくなるのではないかと僕は危惧しています。では、『自分の言葉』を持つにはどうすればいいのかを話していきたいと思います。
『自分の言葉』を持つための取り組みについては、まだまだ未熟なのですが、僕が教師になってから今に至る約15年間の取り組みを話していきたいと思います。僕が目指したのは『生徒のどのような質問に対しても自分の考え、意見を言えるようになること』でした。とはいえ具体的にどうすればいいのかなんてわかりませんし、特別な研修みたいなものもありません。そこで僕がやったのは次の2点だけです。
① 様々なジャンルの本を買って読む ② 読んだ本の気になったところなどをノートにまとめる
ここでのポイントは本を買うということ、インプット、アウトプットを意識せずに自分の血肉にするつもりで読むということです。その理由は借りた本に書き込みができないというのもありますが、一番の理由は自分の成長に対して本気になりたいのがあります。インプット、アウトプットを意識しないのはすぐに使えるものはすぐに使えなくなると考えているからです。ですので意識としては血肉にするになります。言い換えれば1つ1つの内容を自分で定義し直すという感じになります。一応この取り組みは今も現在進行形で続けることができています。その僕が『自分の言葉』を持っているかどうかは自分では判断できないので周りの皆さんの判断に委ねるしかありません。
最後に『自分の言葉』をある人とない人の一番の違いは言葉の重さだと僕は思います。感覚的なことで申し訳ないのですが、同じような言葉を使っても言葉に重さがある人と重さを感じない人がいます。この差は責任感、決意といったもののあるなしではないかと僕は思います。『自分の言葉』を持つとは言い換えれば自分に責任感、決意というものを宿らせることであると僕は思っています。
R&R教育研究所 中村 淳志
2018.10.18
勇気は一瞬、後悔は一生
皆さん、こんにちは。
今回のブログのタイトルは塾に通ってくれている生徒が今のお気に入りの言葉だと僕に教えてくれたものです。とてもいい言葉なので、この言葉はどのような場面で生きてくるのかと考えられるのか、僕の考えをお話させていただければと思います。
このタイトルの言葉で思い浮かぶ場面は新しいことに挑戦するかで迷っているときです。この『新しいこと』は大体の人が進学、留学、就職、転職、起業など、主に仕事上の転機のことを想定されると思います。だからこそ、思い切って挑戦するかどうかなかなか決められないのだと思います。しかし、決断を自分でしなかったら必ず後悔をします。しかもその後悔は一生つきまといます。この事は多くの人が分かっていると思いますが、それでもなかなか決断できないというのは決断する一瞬の勇気より現状維持したい気持ちが上回っているということです。そう考えていると、勇気がある人は別世界の人のように感じるかもしれませんが、勇気を養うことは誰にでもできると僕は思っています。では、勇気とはどうやって身につけるればいいの、僕の考えを話しいきたいと思います。
結論から申し上げますと、普段から決断を下すための判断材料を探すようにしていくことです。具体的なやり方を言っていくと、毎日のニュースなんかを必ず当事者意識でみて、自分がその立場ならどういう判断をするかをイメージする。もちろん理由も明確にします。これを習慣化するだけで自分の決断を下すときの判断基準を明確化できます。判断基準が明確になれば後はそれに従って決断すればいいだけです。つまり勇気とは言い換えれば自分の明確な判断基準といえるのではないかと僕は思っています。
最後に今日は『新しいこと』を仕事上の転機としてお話しさせていただきましたが、新しい習慣に取り組むこと、行った事のないところへ行くということも『新しいこと』への挑戦と僕は思っています。そう考えると僕たちは普段から何気なく決断をしているともいえます。ですので、普段の何気ない決断の理由を考えることも勇気につながるはずです。明確な自分の判断基準をもってしまえばその基準に従って決めているだけという感覚になるはずです。それでも迷ったり、躊躇するようならこう思ってください。
『勇気は一瞬、後悔は一生、1つの決断が未知への扉を開いてくれる』と。
R&R教育研究所 中村 淳志
2018.10.11
成長とは②
皆さん、こんにちは。
今日のブログは前回に引き続き成長をテーマに僕の考えをお話しさせていただけたらと思います。
前回のブログでは自信を過信と勘違いしている人が増えていると書かせていただきました。ただ、昨今それと同じくらいに自尊心がない人も増えてきているなという印象を僕は抱いています。特に若い世代の間で自尊心がない人が多いという印象です。そこで今回は前回とは逆に自信がない人が自信をつけていくための方法についてをお話ししていきます。
自信をつけるには成功体験の積み重ねが必要である、というのはいろいろなところで言われていることで僕もその通りだと思います。ただ、成功体験を積み重ねようと思ったら必ず失敗をすることは避けて通れないのです。なぜなら成功を実感するためには自分で判断し、決断し行動する必要があり、判断を1回も間違えない人間なんて僕の知っている限り1人もいません。だから、成功体験=失敗体験といってもいいのではないかと僕は思っています。何事も初めから上手くいくことなんてありません。失敗という名の試行錯誤を積み重ねて成功という名の結果が生まれると考えると、失敗体験➡成功体験➡失敗体験➡成功体験➡・・・のサイクルをつくることが自信の養うことにつながるのではないのでしょうか。失敗というのは確かにそのときは周りの人たちに迷惑をかけたりすることになります。だから、若い世代の人はそのことを気にするのかもしれませんが、周りに迷惑をかけない人間なんてこの世に1人たりともいません。それこそ、何かあったらお互い様という気持ちでいいのだと僕は思っています。
最後になりますが、成功体験の積み重ねとは同時に失敗体験の積み重ねでもあるのです。だからこそ、失敗というものについての捉え方を今一度考えてみてもらいたいなと僕は思います。捉え方を変えると物事の見方もきっと変わってくるはずです。
R&R教育研究所 中村 淳志